帝国国防方針

日露戦争後に制定された、軍事戦略についての基本的な戦略を定めた軍事機密文章。陸軍が陸海軍作戦の統合的な国防方針を策定しようと発案したことがきっかけとなり、参謀総長と海軍軍令部長の協議で内容を定めて上奏、明治40年4月4日明治天皇によって裁可されたのが最初。以後国際情勢の変化などに応じて変更された(1918年・1923年・1936年の3次にわたり改定)。陸軍は対ソ、海軍は対米中心の軍備を整えた。

日露戦争直後の1905年8月日英同盟の改定を受けて、イギリスとロシア帝国との間で開戦となった場合の日本軍の対処方針について山縣有朋を中心に検討したのがルーツとされる。その後、三国協商・日露協約の締結によってその可能性は失われたが、長年の国防における「海主陸従」状態の打破の好機と見ていた山縣はあくまでも策定の成案を目指した。山縣有朋の原案を基に、当時陸軍中佐であった田中義一が草案を作成した。海軍側もこれに対抗して同様の計画を作成して陸海軍揃って提出するに至った。

仮想敵国をロシア・アメリカ・ドイツ・フランスとし、陸軍は平時25個師団・戦時50師団体制を、海軍は八八艦隊(海軍戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻)創設を謳っていた。統帥部が主導し内閣の意思が反映されない内容だったため、世界最大の陸軍国ロシアに対応する陸軍軍備と、世界最大の海軍国アメリカを相手にする海軍軍備を同時に保持しようとする、国力を無視した国防政策を実行する結果を招いた。

制定・改定時にはロシアを主敵とし「陸主海従」の方針をとる陸軍と、アメリカを主敵とする海軍が激しく対立した。また国防方針が天皇の裁可を受けたものであったため、統帥部は常にこれを根拠に政府に対し軍備拡張を要求し、1912年の二個師団増設問題をはじめとする度々の政変の原因となった。

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