1世紀
57年 奴の国王が後漢の光武帝に遣使
漢委奴国王印
漢委奴国王印
  • 「漢委奴国王」の金印もらう(天明4年(1784年)2月23日・志賀島で発見)
2世紀
107年 倭国王の帥升が生口160人を後漢の安帝に献上
  • 倭国の所在地は九州の可能性が高いが不明
3世紀
220年 後漢滅亡→三国時代(魏・呉・蜀)
倭100余国→30ヶ国くらいに(邪馬台国)
239年 卑弥呼が帯方郡を通じ魏(洛陽)に朝貢→「親魏倭王」の称号と鏡もらう
266年 壱与が西晋(265~316)に朝貢
4世紀
313年 楽浪郡滅亡←高句麗の南下
→日本に鉄入らなくなる
372年 百済から七支刀がもたらされる
七支刀とそれを納める木枠
現在の石上神宮(奈良県天理市)
七支刀とそれを納める木枠
  • 石上神宮(奈良県天理市)に保管
  • 369年に百済で製作されたとされる
391年 朝鮮出兵(辛卯の年)
5世紀
471年 辛亥年(稲荷山古墳鉄剣)
478年 順帝の昇明二年(倭王武の上表文)←六国諸軍事安東大将軍のやつ
6世紀
507年 -
継体
(507~531)
継体天皇(大伴金村が擁立)
512年 任那四県割譲
513年 百済の五経博士が儒教伝える
  • 五経博士は儒教の経典として最も尊重される五つの経書『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』に精通し教授した儒学者
522年 仏教私伝(司馬達等の来日)
  • 『扶桑略記』の記述による ※扶桑は中国における日本の異称
  • 司馬達等は鞍作鳥(止利仏師)の祖父
527年 磐井の乱
磐井の墓に比定される岩戸山古墳(福岡県八女市)と石人・石馬のレプリカ
磐井の墓に比定される岩戸山古墳(福岡県八女市)と石人・石馬のレプリカ
  • 新羅に併合された旧地回復のため6万の軍隊を率いて任那に派遣された近江毛野が、新羅と結んだ筑紫国造磐井により1年余にわたって阻まれる
  • 朝廷は物部麁鹿火を派遣し528年に鎮圧
  • 筑紫磐井は物部麁鹿火に斬られたとされるが、子の筑紫葛子は糟屋屯倉を大和朝廷へ献上し死罪を免れる
  • 近江毛野は529年渡海し、任那と新羅・百済との和解交渉をするが失敗、530年の帰国途中に対馬で病死
  • 物部氏が台頭し大伴氏が没落するきっかけとなる
531年 -
安閑
(531~535)
-
535年 -
宣化
(535~539)
-
538年 百済の聖明王から仏教公伝(戊午説)
  • 『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』の記述
539年 -
欽明
(539~571)
欽明天皇(蘇我稲目が擁立)
540年 大伴金村失脚
552年 仏教公伝(壬申説『日本書紀』)
562年 伽耶諸国滅亡⇨新羅が併合
571年 -
敏達
(572~585)
572年 -
581年 隋建国 [首都は長安(現在の西安市)]
585年 -
用明
(585~587)
-
587年 丁未の乱
  • 親子2代にわたって対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に発生した武力闘争
  • 大臣蘇我馬子の軍と大連物部守屋の軍が物部氏の本拠地のある河内国で戦い、物部守屋一族が滅亡
  • 蘇我氏軍の後方にいた厩戸皇子は、仏法の加護を得ようと白膠木(ヌルデ)の木で四天王の像をつくり戦勝を祈願して、勝利すれば四天王を安置する仏塔を造ると誓う(のち四天王寺創建)
  • 蘇我氏は物部氏の勢力を中央から排除したことでさらに権勢を強める
  • 物部氏を中心とする排仏派の発言力が衰え仏教の国内浸透が本格化
崇峻
(587~592)
在位 587年8月2日(?) - 592年11月3日(?)
泊瀬部
欽明天皇
蘇我小姉君(蘇我稲目の娘)
兄弟 敏達天皇・用明天皇・推古天皇の異母弟
  • 物部守屋を滅ぼした大臣・蘇我馬子に擁立され即位
  • 蘇我馬子の命により東漢直駒に暗殺される
崇峻天皇(蘇我馬子が擁立)
589年 隋が南北朝統一
592年 崇峻天皇暗殺(東漢直駒)





5
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7
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推古
(592~628)
推古天皇が豊浦宮で即位
593年 厩戸王が摂政に就任
四天王寺創建
創建時の四天王寺伽藍模型
創建時の四天王寺伽藍模型
  • 厩戸王(聖徳太子)の発願により四天王像を本尊として創建
  • 587年崇仏派の蘇我馬子による排仏派の物部守屋討伐(丁未の乱)のとき、蘇我氏側にいた厩戸王(聖徳太子)が四天王像を刻み寺院の建立を誓って戦勝を祈願、勝利の後593年摂津国難波の荒陵(あらはか)で創建に着手したとされる
  • 593年に造営の開始か完成かは不明
  • 中門・五重塔・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ伽藍配置(四天王寺式)が特徴
  • 日本最初の官寺とする説もあるが、定説では飛鳥の百済大寺が最古の官寺とされる
594年 仏教興隆の詔
595年 高句麗僧恵慈の来朝
596年 飛鳥寺(法興寺)創建
創建時の法興寺の伽藍の模型
飛鳥大仏(銅造釈迦如来坐像)
現在の飛鳥寺 本堂(奈良県明日香村)
創建時の法興寺の伽藍の模型
  • 蘇我氏の氏寺
  • 588年蘇我馬子の発願により建立
  • 本格的な伽藍を備えた日本最初(日本最古)の仏教寺院
  • 本堂に安置されている本尊の飛鳥大仏(丈六釈迦如来坐像)は609年鞍作鳥(止利仏師)の作・像高275.2cm
  • 一塔三金堂の飛鳥寺式伽藍配置
  • 平城京遷都に伴い現在の奈良市に移転し元興寺となる(奈良に新元興寺が建立され飛鳥寺は本元興寺として残る)
600年 遣隋使(第一回)
7世紀
601年 斑鳩宮造営
602年 百済僧観勒来朝(暦本・天文地理などの書を伝える)
603年 小墾田宮遷宮
小墾田宮見取図
小墾田宮見取図
  • 小治田宮とも書く
  • 豊浦宮から遷宮
  • 603年冠位十二階の制定・604年十七条憲法の制定・607年第2回遣隋使派遣・620年『天皇記』『国記』の編纂などの重要施策がこの宮で行われる
冠位十二階(天皇・蘇我氏は適用外)
604年 憲法十七条
607年 遣隋使(第二回)⇦小野妹子・日出処の天子…
法隆寺
608年 小野妹子帰国(with裴世清)
遣隋使(第三回)⇦小野妹子・僧旻・高向玄理・南淵請安
610年 高句麗僧曇徴来朝(紙・墨・絵の具の製法を伝える)
614年 遣隋使(第四回)⇦犬上御田鍬
615年 恵慈が帰国(三経義疏をもって)
618年 唐建国(隋滅亡)
620年 『天皇記』『国記』の成立⇦乙巳の変で焼失(by蘇我蝦夷)
622年 厩戸王(没)
天寿国繍帳(橘大郎女)
628年 -
舒明
(629~641)
629年 舒明天皇
630年 遣唐使(第一回)⇦大使犬上御田鍬・薬師恵日 (計19回派遣)
飛鳥岡本宮遷宮
632年 僧旻が帰国
636年 田中宮遷宮
640年 高向玄理・南淵請安が帰国
舒明天皇が伊予行幸からの帰路、厩坂宮に滞在
百済宮遷宮
641年 -
皇極
(642~645)
  • 在位:642年1月15日 - 645年6月14日
  • 645年6月12日、中大兄皇子らが皇極天皇がいる中で宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日6月13日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害したことを受けて、6月14日に退位し弟の軽皇子(孝徳天皇)に大王位を譲る
  • 日本史上初めて譲位(退位)した天皇
642年 皇極天皇
643年 飛鳥板蓋宮遷宮
  • 乙巳の変の舞台となる
山背大兄王一族が自殺
  • 法隆寺で首をくくる
  • 上宮王家(聖徳太子とその弟の家系)の滅亡
大化
(645~650)
645年 乙巳の変
『多武峰縁起絵巻』の模写(住吉如慶・具慶の合作)
『多武峰縁起絵巻』の模写(住吉如慶・具慶の合作)
  • 飛鳥板蓋宮で発生
  • 6月12日、中大兄皇子らが皇極天皇がいる中で宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日6月13日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する
  • 変の発生を受けて6月14日、皇極天皇が退位し弟の軽皇子(孝徳天皇)に大王位を譲る
孝徳
(645~654)
孝徳天皇
大化の改新
難波長柄豊碕宮遷宮
高句麗遠征開始⇦唐・新羅連合軍
646年 改新の詔
大化の薄葬令
647年 渟足柵
648年 磐舟柵
650年 -
白雉
(650~654)
-
654年 -
斉明
(655~661)
655年 斉明天皇が飛鳥板蓋宮で即位
飛鳥川原宮
656年 後飛鳥岡本宮遷宮
658年 (~)阿倍比羅夫の蝦夷征討
660年 唐・新羅の同盟
百済滅亡⇦唐・新羅連合軍
661年 朝倉宮(朝倉橘広庭宮)
斉明天皇(没)[筑紫朝倉宮]
中大兄皇子
[称制]
(661~668)
中大兄皇子称制
663年 白村江の戦⇦唐の水軍に大敗
664年 烽・防人[対馬・壱岐・筑紫など]・水城[太宰府]
甲子の宣(氏上・民部・家部・冠位二十六階)
665年 大野城・基肄城の築城
  • 筑前国に築いた朝鮮式山城
遣唐使(白村江の戦の敗戦に対応)
667年 近江大津宮遷都(飛鳥岡本宮から)
金田城(朝鮮式山城)[対馬]
668年 近江令
天智
(668~671)
天智天皇
高句麗滅亡⇦唐・新羅連合軍
669年 中臣鎌足(没)⇨大織冠・藤原姓
遣唐使(高句麗平定の祝賀を述べる)
670年 庚午年籍(永久保存・日本書紀に記述なし)
唐・新羅戦争(~676)
法隆寺消失
671年 大友皇子が太政大臣
天智天皇(没)
弘文
(671~672)
-
672年 壬申の乱
飛鳥浄御原宮造営
673年 -
天武
(673~686)
天武天皇
675年 部曲の廃止
676年 新羅が朝鮮半島統一
681年 律令編纂開始
683年 富本銭(天武12年の詔)
684年 八色の姓
朱鳥
(686)
686年 天武天皇(没)
鸕野讚良皇后
[称制]
(686~690)
鸕野讚良皇女称制
大津皇子の変
689年 飛鳥浄御原令施行
草壁皇子(没)
持統
(690~697)
690年 持統天皇
庚寅年籍(初の班田台帳)
694年 藤原京遷都
697年 -
文武
(697~707)
文武天皇
698年 渤海建国
  • 初代王の大祚栄(靺鞨族)が建国
  • 律令政府は送客使を派遣
大宝
(701~704)
8世紀
701年 大宝律令制定(刑部親王・藤原不比等)
702年 大宝律令施行(評⇨郡)
班田収授法
大宝の遣唐使(大使粟田真人・山上憶良ら)⇦33年ぶり・「日本」号の使用
704年 -
慶雲
(704~708)
-
706年 租二束二把⇨一束五把
707年 -
元明
(707~715)
元明天皇
708年 武蔵国秩父郡の銅が献上される
和銅
(708~715)
和同開珎の鋳造・発行
和同開珎銀銭
和同開珎銀銭
  • 唐の開元通宝にならう
  • 平城京造営の費用捻出を目的に発行
  • はじめ銀銭のち銅銭を発行
  • 銀銭は翌年(709年)廃止
  • 武蔵国秩父・長門国・周防国などから産出された銅を使用
  • 鋳銭司(令外官)が鋳造
  • 本朝(皇朝)十二銭の最初
709年 私鋳銭の禁止
710年 -





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1
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7
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平城京遷都(唐の長安城をモデル)
711年 蓄銭叙位令
712年 古事記(~推古天皇)⇦稗田阿礼・太安万侶
出羽国設置
713年 風土記
大隅国設置
715年 -
元正
(715~724)
霊亀
(715~717)
元正天皇
~里⇨郷、土断の法
717年 遣唐使(玄昉・吉備真備・阿倍仲麻呂←阿倍比羅夫の孫・唐名を朝衡/晁衡・科挙に合格・玄宗皇帝に仕える・日本への帰国を果たせず唐で客死)
養老
(717~724)
-
718年 養老律令制定
720年 『日本書紀』成立
名称 完成年 時期 編纂者
日本書紀 720年 神話~持統 舎人親王
続日本紀 797年 文武~桓武 菅野真道ら
日本後紀 840年 桓武~淳和 藤原冬嗣
藤原緒嗣ら
続日本後紀 869年 仁明 藤原良房ら
日本文徳天皇
実録
879年 文徳 藤原基経ら
日本三代実録 901年 清和~光孝 藤原時平
菅原道真ら
  • 神話~持統天皇までの時期を扱う
  • 舎人親王の編纂
  • 太安万侶も編纂にも加わったとされる
藤原不比等(没)⇨長屋王政権
隼人の反乱(大伴旅人が鎮圧)
722年 百万町歩開墾計画
723年 三世一身の法(養老七年の格)
724年 -
聖武
(724~749)
神亀
(724~729)
聖武天皇
⇨「宮子」尊称問題
多賀城設置(陸奥国府・鎮守府)⇦大野東人[1978年 漆紙文書の発見]
727年 渤海使来日
729年 長屋王の変⇨藤原四子政権⇨光明子の立后
天平
(729~749)
-
733年 秋田城設置
737年 藤原四子が天然痘で死没⇨橘諸兄政権(吉備真備・玄昉を登用)
740年 藤原広嗣の乱
  • 大宰少弐に左遷された藤原広嗣が玄昉・吉備真備の排除を目指し1万に及ぶ兵を集めて北九州で反乱を起こす
  • 持節大将軍に任じられた大野東人が、東海以下五道から徴発された兵1万7000人を率いて西下し鎮圧
  • 聖武天皇の度重なる遷都の原因となり、折からの天然痘流行と相まって国分寺・東大寺造営の直接の契機となる
  • 藤原広嗣は式家藤原宇合の長男
恭仁京遷都
  • 山背国に位置
741年 国分寺建立の詔
下野国分寺
下野国分寺
  • 山背国恭仁京で発布
  • 諸国に国分寺(国分僧寺)と国分尼寺を建立
  • 国分寺(国分僧寺)は正式名称を「金光明四天王護国之寺」・『金光明最勝王経』を置く
  • 国分尼寺は正式名称を「法華滅罪之寺」・『妙法蓮華経(法華経)』を置く
  • 東大寺を総国分寺・法華寺を総国分尼寺とし、全国の国分寺・国分尼寺の総本山に位置づけ
  • 国分寺には僧官が置かれ国司の監督のもとに寺務をとり国内の僧尼を監督
  • 律令体制の根幹をゆるがす疫病・飢饉・反乱などの災いを鎮護国家思想によって消除を図る目的
743年 墾田永年私財法(天平十五年の格)
大仏(盧舎那仏)造立の詔
  • 近江国の離宮紫香楽宮で発布
  • 紫香楽で造立開始
  • 毘盧遮那仏(盧遮那仏)は華厳経の教主(本尊)で、密教では大日如来と同一視される
744年 難波宮遷都
紫香楽宮遷都
745年 平城京還都
玄昉左遷(筑紫観世音寺)
東大寺で大仏造立開始(仏師国中公麻呂らの指揮)→財政の悪化・農民の負担増
行基が大僧正
749年 陸奥国(黄金山産金遺跡)の金が献上される←日本最初の金産出
天平感宝
(749)
-
孝謙
(749~758)
天平勝宝
(749~757)
孝謙天皇
藤原仲麻呂が大納言兼紫微令⇨藤原仲麻呂政権
750年 吉備真備左遷(筑前守)
751年 『懐風藻』成立
752年 大仏開眼供養
  • 孝謙天皇ほか1万数千人が参列
  • 仏教公伝200年の節目に合わせ仕上げは未完成
  • インド僧菩提僊那が導師を務める
  • 林邑楽が舞われる
遣唐使(大使藤原清河・副使大伴古麻呂・副使吉備真備)
  • 玄宗皇帝に謁見
  • 753年1月、長安における朝賀に出席した際に新羅と席次を争う
  • 帰国時に鑑真が副使大伴古麻呂の船に乗り来日、大使藤原清河の船は阿倍仲麻呂を乗せ安南(ベトナム)に漂着した後長安に帰還
  • 藤原清河は755年に長安に帰還後、唐に仕え客死(唐名は河清)
753年 遣唐使が長安で新羅と席次争い
  • 1月に長安含元殿における朝貢諸国の使節による玄宗皇帝臨御の朝賀に出席した際、日本が新羅の下席につかされたことに遣唐副使大伴古麻呂が抗議し席次を変更させる
-
754年 鑑真来朝
唐招提寺 御影堂 鑑真和上像
唐招提寺 御影堂 鑑真和上像
  • 日本の律宗の開祖
  • 742年日本僧栄叡(ようえい)らの要請に応じて渡航を企てるが5回失敗しその間に失明、753年6度目に成功
  • 遣唐大使藤原清河の船(第一船)に同乗し渡日する計画が当局に漏洩し、遣唐副使大伴古麻呂が内密に鑑真を(第二船に)乗船させる
  • 753年11月に唐を出航し沖縄本島に上陸、12月に沖縄本島を再出航し、鑑真らの乗った第二船は屋久島に漂着、その後現在の鹿児島県坊津に漂着し12月中に大宰府に到着、翌年754年2月に奈良の朝廷へ到着
  • 遣唐大使藤原清河と阿倍仲麻呂の乗った第一船は、沖縄本島を出航後に座礁してベトナム北部に漂着した後唐に戻る
  • 平城京に到着後、戒壇の設立と授戒を一任され東大寺に住する
  • 759年唐招提寺(律宗の総本山)を創建 ※招提は私寺の意
  • 唐招提寺御影堂の鑑真和上像は日本最古の肖像彫刻
  • 779年淡海三船により鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が成立
755年 安史の乱(~763)
756年 聖武太上天皇(没)
757年 養老律令施行
橘奈良麻呂の変
  • 橘奈良麻呂大伴古麻呂らが捕らえられ拷問死
天平宝字
(757~765)
大仏の仕上げ完成(光背の完成は771年)
758年 -
淳仁
(758~764)
淳仁天皇 淡路陵
淳仁天皇 淡路陵
在位 758年(天平宝字2年)年8月1日 ~
764年(天平宝字8年)10月9日
大炊
祖父 天武天皇
舎人親王
別称 淡路廃帝
  • 藤原仲麻呂の私邸(田村第)に住み、藤原仲麻呂の推挙により皇太子となる
  • 践祚後も藤原仲麻呂が政治の実権を握る
  • 孝謙上皇が道鏡を寵愛したことを諫め、上皇と対立する
  • 恵美押勝の乱(淳仁天皇自身は加担せず)の失敗により後見人藤原仲麻呂を失って廃帝となり、淡路国に流され幽閉される
  • 天平神護元年(765年)10月に逃亡を図るが捕まり、翌日暗殺され33歳で死没
  • 敵対した称徳天皇の意向で天皇と認められず「淡路廃帝」と呼ばれる
  • 明治3年(1870年)に弘文天皇・仲恭天皇と共に淳仁の諡号が贈られ歴代天皇に加えられる
淳仁天皇
⇨恵美押勝の賜姓・官職の唐風改称
759年 遣唐使(藤原清河を迎えるため・小規模←安史の乱の影響で果たせず)
新羅征討計画
『万葉集』成立
  • 759年~780年頃に成立
  • 大伴家持の編纂
760年 光明皇太后(没)
万年通宝、開基勝宝(金貨・皇朝十二銭でない)
764年 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱
  • 藤原仲麻呂は後見人である光明皇太后の死没を機に権勢が衰えはじめ、道鏡の処遇をめぐって孝謙上皇と淳仁天皇・藤原仲麻呂の対立が表面化し、上皇側が実権を握ったことで追い詰められた藤原仲麻呂が乱を起こす
  • 三関の固関
  • 吉備真備の指揮
  • 藤原仲麻呂は平城京を脱出するが愛発関の突破できず琵琶湖で斬首
  • 淳仁天皇は廃帝となり淡路国に流され幽閉される
称徳
(764~770)
称徳天皇(出家のまま即位)⇨道鏡政権
百万塔陀羅尼制作
  • 100万基の木製三重小塔に陀羅尼経を納める ※陀羅尼はサンスクリット語の呪文
  • 製作年の判明している世界最古の現存印刷物
  • 道鏡のすすめで称徳天皇が発願
  • 恵美押勝の乱の戦死者の菩提を弔うと共に鎮護国家を祈念する目的で制作
  • 770年完成
  • 当初は南都十大寺に10万基づつ安置
  • 法隆寺に一部現存
765年 加墾禁止令(寺社を除き一切の墾田私有を禁止)
天平神護
(765~767)
道鏡が太政大臣禅師
766年 道鏡が法王(天皇に準じる身分)
吉備真備が右大臣
767年 -
神護景雲
(767~770)
-
769年 宇佐八幡宮神託事件
現在の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)
現在の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)
  • 道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人らが「道鏡を皇位に即かせれば天下は泰平である」という宇佐八幡宮の神託を奏上
  • 孝謙上皇は側近の和気広虫(法均尼)に代わってその弟和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣
  • 和気清麻呂は「天の日嗣は必ず皇緒を立てよ 無道の人は宜しく早に掃い除くべし」という神託を持ち帰って奏上し、道鏡の野心を阻止(背後に藤原百川)
  • 和気清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられ大隅国へ流罪・姉の和気広虫も別部広虫売(わけべのひろむしめ)と改名させられる
  • 和気清麻呂は翌年(770年)称徳天皇の死没後、光仁天皇の即位に伴い召還され本姓名を回復、光仁天皇・桓武天皇に仕える
  • 宇佐八幡宮は八幡神(応神天皇)を祀る八幡宮の総本社で、石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の1つ
  • 富貴寺は平安時代に開かれた宇佐神宮大宮司の氏寺
770年 称徳天皇(没)
光仁
(770~781)
宝亀
(770~781)
光仁天皇(62歳)
⇨道鏡左遷(下野国薬師寺)
772年 無制限私財法
他戸親王を廃太子⇦藤原百川の陰謀?
777年 遣唐使
780年 伊治呰麻呂の乱
781年 -
天応
(781~782)
-
桓武
(781~806)
在位 781年(天応元年)4月3日 ~
806年(延暦25年)3月17日
山部
白壁王(光仁天皇)の長男
高野新笠
兄弟 早良親王は同母弟
平城天皇・嵯峨天皇・淳和天皇
別称 柏原帝
  • 光仁天皇即位以前は山部王、即位後は親王宣下を受け山部親王と称された
  • 平城京から長岡京および平安京への遷都を行う
  • 桓武平氏の祖
桓武天皇
782年 -
延暦
(782~806)
-
784年 長岡京遷都
長岡京 復元想像図
古代都城位置図
長岡京 復元想像図
  • 山城国乙訓郡長岡に位置
  • 藤原種継の建議
  • 藤原種継が造宮使長官に任命される
  • 造営に秦氏の協力
  • 平城京・平安京と並ぶ京域を持つ
785年 藤原種継暗殺事件
  • 造宮使藤原種継が造宮視察中に矢で射られ翌日死没
  • 大伴継人らが主謀者として捕らえられ斬首、事件20日前に死没した大伴家持も首謀者として処罰され官籍から除名される
  • 早良親王が関与したとして廃太子となり乙訓寺に幽閉される(背景に早良親王に代わり安殿親王を立太子しようとする桓武天皇の企図)
  • 早良親王は無実を訴えるため絶食し配流先の淡路国に向かう途中で絶命
  • 早良親王の死後、皇太子に立てられた安殿親王の発病、桓武天皇の妃である藤原旅子藤原乙牟漏坂上又子の病死、高野新笠の病死、疫病の流行、洪水などが相次ぎ、早良親王の祟りとしてその怨霊を恐れた桓武天皇は霊を慰めるため廃太子に崇道天皇の号を追贈
788年 延暦寺創建
789年 紀古佐美の遠征[衣川で敗退]
792年 健児の制←軍団制の廃止に伴い設置
794年 -





7
9
4
|
1
1
8
5
平安京遷都
  • 和気清麻呂の建議
  • 遷都後、山背国を山城国に改める
795年 公出挙5割⇨3割・雑徭60日⇨30日
797年 勘解由使
坂上田村麻呂の遠征(阿弖流為)
『続日本紀』成立
名称 完成年 時期 編纂者
日本書紀 720年 神話~持統 舎人親王
続日本紀 797年 文武~桓武 菅野真道ら
日本後紀 840年 桓武~淳和 藤原冬嗣
藤原緒嗣ら
続日本後紀 869年 仁明 藤原良房ら
日本文徳天皇
実録
879年 文徳 藤原基経ら
日本三代実録 901年 清和~光孝 藤原時平
菅原道真ら
  • 697~791年の95年間を扱う
  • 文武天皇~桓武天皇までの時期を扱う
  • 菅野真道ら編纂
  • 漢文編年体
9世紀
801年 班田励行(6年1班⇨12年1班)[一紀一班]
802年 胆沢城(多賀城から鎮守府を移す)
803年 志波城
804年 遣唐(留学生橘逸勢・最澄・空海ら)
805年 最澄が唐から帰国
徳政相論
  • 藤原緒嗣菅野真道
  • 軍事と造作の中止
806年 -
平城
(806~809)
在位 806年(延暦25年)3月17日 ~ 
809年(大同4年)4月1日
小殿(おて)後に安殿(あて)
桓武天皇(第一皇子)
藤原乙牟漏(桓武天皇の皇后)
兄弟 嵯峨天皇(同母弟)・淳和天皇(異母弟)
在原業平
別称 奈良帝
  • 皇太子時代より藤原薬子(妃の母)を寵愛
  • 病気のため在位3年で弟の賀美能親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり平城京に移り住む
平城天皇
大同
(806~810)
空海が唐から帰国←長安青龍寺の恵果に約半年間師事
809年 -
嵯峨
(809~823)
在位 809年(大同4年)4月1日 ~
823年(弘仁14年)4月16日
賀美能(神野)
桓武天皇(第二皇子)
藤原乙牟漏(桓武天皇の皇后)
兄弟 平城天皇(同母兄)・淳和天皇(異母弟)
仁明天皇・源信
  • 漢詩・書に優れ、空海・橘逸勢とともに三筆の一人に数えられる
  • 嵯峨源氏の祖
嵯峨天皇
810年 薬子の変(平城太上天皇の変)←空海が嵯峨天皇につき祈祷
蔵人頭設置(藤原冬嗣・巨勢野足)
  • 天皇の側近に在って機密文書の取り扱いと上奏を行う
  • 薬子の変の影響
  • 藤原北家台頭の起点となる
弘仁
(810~824)
-
811年 文室綿麻呂の遠征(最後の蝦夷征討)
814年 『凌雲集』成立
816年 検非違使
金剛峯寺創建
818年 『文華秀麗集』成立
820年 弘仁格式
821年 空海が讃岐国満濃池の改修を指揮←日本最古かつ最大の灌漑用ため池
823年 嵯峨天皇が空海に東寺を下賜
公営田[太宰府]
淳和
(823~833)
在位 823年(弘仁14年)4月16日 ~
833年(天長10年)2月28日
大伴(おおとも)
桓武天皇
藤原旅子(藤原百川の娘)
兄弟 平城天皇(異母兄)・嵯峨天皇(異母兄)
恒貞親王
別称 西院帝
  • 823年(弘仁14年)4月16日の即位にともない大伴氏が伴氏と改姓
  • 子の恒貞親王は仁明天皇の皇太子に立てられたが承和9年(842年)の承和の変により廃太子
淳和天皇
824年 -
天長
(824~834)
-
827年 『経国集』成立
828年 空海が綜芸種智院を開設
833年 令義解
仁明
(833~850)
仁明天皇
834年 -
承和
(834~848)
-
838年 最後の遣唐使(円仁『入唐求法巡礼行記』)
  • 2度失敗→副使小野篁が大使藤原常嗣と対立し乗船拒否→漢詩で風刺→嵯峨上皇激怒→隠岐へ配流(わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣り舟)→840年許され帰京
840年 『日本後紀』成立
名称 完成年 時期 編纂者
日本書紀 720年 神話~持統 舎人親王
続日本紀 797年 文武~桓武 菅野真道ら
日本後紀 840年 桓武~淳和 藤原冬嗣
藤原緒嗣ら
続日本後紀 869年 仁明 藤原良房ら
日本文徳天皇
実録
879年 文徳 藤原基経ら
日本三代実録 901年 清和~光孝 藤原時平
菅原道真ら
  • 792~833年の42年間を扱う
  • 桓武天皇~淳和天皇までの時期を扱う
  • 藤原冬嗣・藤原緒嗣ら編纂
842年 承和の変⇨恒貞親王廃太子&伴健岑・橘逸勢ら流罪
848年 -
嘉祥
(848~851)
-
850年 -
文徳
(850~858)
文徳天皇
851年 -
仁寿
(851~854)
-
853年 円珍が入唐(遣唐使ではない)
854年 -
斎衡
(854~857)
-
857年 藤原良房が太政大臣
天安
(857~859)
-
858年 -
清和
(858~876)
在位 858年(天安2年)10月7日 ~
876年(貞観18年)11月29日
惟仁(これひと)
文徳天皇
女御藤原明子(父は藤原良房)
陽成天皇
別称 水尾帝・貞観帝
  • 9歳で即位した初の幼少天皇
  • 藤原良房が外戚として政治の実権を握る
  • 武家の棟梁となる清和源氏の祖
清和天皇
⇨藤原良房が事実上の摂政
859年 -
貞観
(859~877)
-
866年 応天門の変
⇨事件後に藤原良房が正式に摂政に就任
『伴大納言絵巻』常盤光長作(院政期)
『伴大納言絵巻』常盤光長作(院政期)
  • 大納言伴善男・紀豊城・紀夏井ら流罪
  • 事件後に藤原良房が正式に摂政に就任
869年 『続日本後紀』成立
名称 完成年 時期 編纂者
日本書紀 720年 神話~持統 舎人親王
続日本紀 797年 文武~桓武 菅野真道ら
日本後紀 840年 桓武~淳和 藤原冬嗣
藤原緒嗣ら
続日本後紀 869年 仁明 藤原良房ら
日本文徳天皇
実録
879年 文徳 藤原基経ら
日本三代実録 901年 清和~光孝 藤原時平
菅原道真ら
  • 833~850年の18年間を扱う
  • 仁明天皇の時期を扱う
  • 藤原良房ら編纂
貞観格
871年 貞観式
872年 藤原良房(没)
875年 黄巣の乱(~884)
876年 -
陽成
(876~884)
在位 876年(貞観18年)11月29日 ~
884年(元慶8年)2月4日
貞明(さだあきら)
清和天皇
藤原高子(藤原長良の娘)
  • 9歳で即位した、父清和天皇に続く幼少天皇
  • 即位に伴い母方の伯父藤原基経が摂政に就く
  • 殺人を犯し17歳(満15歳)で退位
陽成天皇(幼少のため即位にともない藤原基経が摂政に就任)
877年 -
元慶
(877~885)
-
879年 『日本文徳天皇実録』成立
名称 完成年 時期 編纂者
日本書紀 720年 神話~持統 舎人親王
続日本紀 797年 文武~桓武 菅野真道ら
日本後紀 840年 桓武~淳和 藤原冬嗣
藤原緒嗣ら
続日本後紀 869年 仁明 藤原良房ら
日本文徳天皇
実録
879年 文徳 藤原基経ら
日本三代実録 901年 清和~光孝 藤原時平
菅原道真ら
  • 850~858年の8年間を扱う
  • 文徳天皇の時期を扱う
  • 藤原基経らの編纂
元慶官田[畿内]
880年 藤原基経が太政大臣に就任
884年 -
光孝
(884~887)
光孝天皇(55歳)
⇨藤原基経が事実上の関白
885年 -
仁和
(885~889)
-
887年 -
宇多
(887~897)
宇多天皇(寛平の治)
888年 (887~)阿衡の紛議⇨橘広相を処罰⇨藤原基経が関白
889年 -
寛平
(889~898)
-
891年 藤原基経(没)⇨菅原道真が蔵人頭
894年 遣唐使廃止(菅原道真の建議←自身が遣唐大使に任じられたため)
897年 -
醍醐
(897~930)
醍醐天皇⇦『寛平御遺誡』(宇多天皇)
898年 -
昌泰
(898~901)
-
10世紀
901年 昌泰の変
『北野天神縁起絵巻』(承久本)伝藤原信実作
『北野天神縁起絵巻』(承久本)伝藤原信実作
  • 菅原道真が太宰権帥に左遷される
延喜
(901~923)
『日本三代実録』成立
名称 完成年 時期 編纂者
日本書紀 720年 神話~持統 舎人親王
続日本紀 797年 文武~桓武 菅野真道ら
日本後紀 840年 桓武~淳和 藤原冬嗣
藤原緒嗣ら
続日本後紀 869年 仁明 藤原良房ら
日本文徳天皇
実録
879年 文徳 藤原基経ら
日本三代実録 901年 清和~光孝 藤原時平
菅原道真ら
  • 858~887年の30年間を扱う
  • 藤原時平・菅原道真ら編纂
  • 清和天皇・陽成天皇・光孝天皇の時期を扱う
  • 漢文編年体
902年 延喜の荘園整理令
  • 最初の荘園整理令
最後の班田実施
905年 『古今和歌集』成立(紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑の撰)
907年 延喜格
唐の滅亡→五代十国
909年 藤原時平(没)
914年 意見封事十二箇条(三善清行)
916年 遼(契丹)建国
918年 高麗建国
923年 -
延長
(923~931)
-
926年 渤海滅亡(遼の侵入)
927年 延喜式
930年 -
朱雀
(930~946)
朱雀天皇(藤原忠平が摂政⇦天皇幼少のため)
931年 -
承平
(931~938)
-
935年 平将門の乱(~40年)
  • 平貞盛・藤原秀郷(下野国の押領使)が鎮圧 ※押領使は東国・追捕使は西国
新羅滅亡
936年 藤原忠平が太政大臣
高麗が朝鮮半島統一
938年 -
天慶
(938~947)
-
939年 藤原純友の乱(~41年)
  • 藤原北家の出身で前伊予掾
  • 伊予国日振島を根拠とする
  • 海賊を率いて大宰府を攻略
  • 小野好古(追捕使)・源経基が鎮圧 ※押領使は東国・追捕使は西国
941年 藤原忠平が関白
946年 -
村上
(946~967)
村上天皇
947年 「契丹」→「遼」に国号を改める(983年に契丹に戻す・1066年に遼に戻す)
天暦
(947~957)
-
949年 藤原忠平(没)⇨摂関置かず
957年 -
天徳
(957~961)
-
958年 乾元大宝の鋳造・発行
名称 天皇 鋳造年 材料
和同開珎 元明 708 銀のち銅
万年通宝 淳仁 760
神功開宝 称徳 765
隆平永宝 桓武 796
富寿神宝 嵯峨 818
承和昌宝 仁明 835
長年大宝 仁明 848
饒益神宝 清和 859
貞観永宝 清和 870
寛平大宝 宇多 890
延喜通宝 醍醐 907
乾元大宝 村上 958
  • 本朝(皇朝)十二銭の最後
  • これ以降の銅銭の公鋳は1606年に鋳造された慶長通宝(あるいは1636年の寛永通宝)まで途絶える
960年 北宋建国
961年 -
応和
(961~964)
-
964年 -
康保
(964~968)
-
967年 -
冷泉
(967~969)
冷泉天皇(藤原実頼が関白)
968年 -
安和
(968~970)
-
969年 安和の変⇨摂関常置へ
円融
(969~984)
円融天皇
970年 藤原実頼(没)
天禄
(970~973)
-
973年 -
天延
(973~976)
-
976年 -
貞元
(976~978)
-
978年 -
天元
(978~983)
-
979年 宋が中国統一
983年 -
永観
(983~985)
奝然が入宋(東大寺三論宗の僧/大蔵経・清涼寺釈迦如来像もたらす)
984年 -
花山
(984~986)
-
985年 -
寛和
(985~987)
『往生要集』成立(源信の仏教書)
986年 -
一条
(986~1011)
-
987年 -
永延
(987~989)
-
988年 尾張国郡司百姓等解(国司の藤原元命が訴えられる)
989年 -
永祚
(989~990)
-
990年 -
正暦
(990~995)
-
995年 藤原道長が内覧⇨右大臣⇨氏長者
長徳
(995~999)
-
996年 藤原道長が左大臣
999年 -
長保
(999~1004)
-
11世紀
1004年 -
寛弘
(1004~1012)
-
1011年 -
三条
(1011~1016)
-
1012年 -
長和
(1012~1017)
-
1013年 藤原公任『和漢朗詠集』成立
1016年 藤原道長が摂政
後一条
(1016~1036)
-
1017年 藤原道長が太政大臣⇨摂政と氏長者を藤原頼通に譲る
寛仁
(1017~1021)
-
1018年 藤原威子が後一条天皇の中宮
1019年 刀伊(遼支配下の女真族)の入寇(太宰権帥・藤原家隆[伊周の弟]が撃退)、藤原道長出家、藤原頼通が関白
1021年 -
治安
(1021~1024)
-
1022年 法成寺造営
1024年 -
万寿
(1024~1028)
-
1027年 藤原道長(没)
1028年 -
長元
(1028~1037)
平忠常の乱(~1031年)[房総半島]⇦甲斐守・源頼信が追討使(源氏東国進出の契機)
1036年 -
後朱雀
(1036~1045)
-
1037年 -
長暦
(1037~1040)
-
1040年 -
長久
(1040~1044)
長久の荘園整理令
1044年 -
寛徳
(1044~1046)
-
1045年 -
後冷泉
(1045~1068)
寛徳の荘園整理令
1046年 -
永承
(1046~1053)
-
1051年 前九年の役(~62年)
1052年 末法元年(末法の世に突入)
1053年 平等院鳳凰堂造営
天喜
(1053~1058)
-
1058年 -
康平
(1058~1065)
-
1065年 -
治暦
(1065~1069)
-
1068年 -
後三条
(1068~1072)
後三条天皇
⇨藤原頼通は宇治に閉居
1069年 -
延久
(1069~1074)
延久の荘園整理令・記録荘園券契所
1072年 -
白河
(1072~1086)
白河天皇
1074年 藤原頼通(没)
承保
(1074~1077)
-
1077年 -
承暦
(1077~1081)
法勝寺建立
名称 発願者 建立年
法勝寺 白河上皇 1077年
尊勝寺 堀川天皇 1102年
最勝寺 鳥羽天皇 1118年
円勝寺 待賢門院 1128年
成勝寺 崇徳天皇 1139年
延勝寺 近衛天皇 1149年
  • 院政期に造られた六勝寺の1つ
  • 六勝寺の最初にして最大の寺
  • 八角九重塔は高さ約80メートル
  • 応仁の乱以後は衰微廃絶
1081年 -
永保
(1081~1084)
-
1083年 後三年の役(~87年)
1084年 -
応徳
(1084~1087)
-
1086年 -
堀河
(1086~1107)
堀河天皇
⇨白河上皇の院政開始
1087年 -
寛治
(1087~1094)
-
1094年 -
嘉保
(1094~1096)
-
1096年 -
永長
(1096~1097)
-
1097年 -
承徳
(1097~1099)
-
1099年 -
康和
(1099~1104)
-
12世紀
1104年 -
長治
(1104~1106)
-
1106年 -
嘉承
(1106~1108)
-
1107年 -
鳥羽
(1107~1123)
鳥羽天皇
源義親の乱(~1108年)[出雲](源義家の子)⇦平正盛が鎮圧(平氏西国進出の契機)
1108年 -
天仁
(1108~1110)
-
1110年 -
天永
(1110~1113)
-
1113年 -
永久
(1113~1118)
-
1115年 金建国(遼支配下の女真族が独立)
1118年 -
元永
(1118~1120)
-
1120年 -
保安
(1120~1124)
-
1123年 -
崇徳
(1123~1141)
崇徳天皇
1124年 -
天治
(1124~1126)
中尊寺金色堂建立(藤原清衡)
1125年 遼の滅亡⇦金の侵入
1126年 -
大治
(1126~1131)
-
1127年 南宋建国(北宋滅亡⇦金の侵入)
1129年 白河上皇(没)⇨鳥羽の院政開始、瀬戸内海の海賊討伐(平忠盛)
1131年 -
天承
(1131~1132)
-
1132年 -
長承
(1132~1135)
-
1135年 -
保延
(1135~1141)
-
1141年 -
永治
(1141~1142)
-
近衛
(1141~1155)
近衛天皇
1142年 -
康治
(1142~1144)
-
1144年 -
天養
(1144~1145)
-
1145年 -
久安
(1145~1151)
-
1151年 -
仁平
(1151~1154)
-
1154年 -
久寿
(1154~1156)
-
1155年 -
後白河
(1155~1158)
  • 在位:1155年(久寿2年)7月24日 - 1158年(保元3年)8月11日
  • 即位の背景に後白河の乳母の夫である藤原通憲(信西)の画策
後白河天皇
1156年 -
保元
(1156~1159)
鳥羽法皇(没)
⇨保元の乱
皇室 後白河天皇(弟) 崇徳上皇(兄)
摂関家 藤原忠通(兄) 藤原頼長(弟)
平氏 平清盛(甥) 平忠正(叔父)
源氏 源義朝(兄) 源為義(父)
源為朝(弟)
1158年 -
二条
(1158~1165)
後白河の院政開始
1159年 -
平治
(1159~1160)
平治の乱
武家 平清盛 源義朝
院近臣 藤原通憲(信西) 藤原信頼
1160年 -
永暦
(1160~1161)
願成寺白水阿弥陀堂建立(福島県)
1161年 -
応保
(1161~1163)
-
1163年 -
長寛
(1163~1165)
-
1164年 安芸国厳島神社に平家納経奉納
「平家納経」の模本
「平家納経」の模本
蓮華王院創建
蓮華王院本堂(三十三間堂)
蓮華王院本堂(三十三間堂)
  • 後白河法皇の勅願で平清盛が造営
1165年 -
永万
(1165~1166)
-
六条
(1165~1168)
-
1166年 -
仁安
(1166~1169)
-
1167年 平清盛が太政大臣
1168年 -
高倉
(1168~1180)
高倉天皇
1169年 -
嘉応
(1169~1171)
-
1171年 -
承安
(1171~1175)
平徳子が入内(72年に中宮)
1173年 大輪田泊修築
  • 天平年間(729年 - 749年)に行基が開いたと伝わる五泊(河尻・大輪田・魚住・韓・檉生)の1つ
1175年 -
安元
(1175~1177)
-
1177年 鹿ケ谷の陰謀
処罰
藤原成親 備前国に配流のち殺害
藤原師光(西光) 斬首(平清盛を面罵)
俊寛 鬼界ヶ島に配流のち自害
平康頼
藤原成経(成親の子)
鬼界ヶ島に配流
(のち赦免され帰京)
  • 藤原成親・藤原師光(西光)・俊寛(真言宗僧)ら後白河院の近臣が京都東山鹿ヶ谷の俊寛の山荘で平氏討伐を謀議
  • 多田行綱(摂津源氏の流れを汲む多田源氏)の密告により平清盛に発覚
  • 平重盛(清盛の子)が藤原成親の助命を嘆願するが聞き入れられず(藤原成親の同母妹の藤原経子は平重盛の正室)
治承
(1177~1181)
-
1179年 治承三年の政変
  • 治承3年(1179年)11月に発生した平氏によるクーデター
  • 福原から上洛した平清盛が数千騎の軍勢を率いて京都を制圧
  • 後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し院政停止
  • 後白河法皇の近臣や関白以下40名余りの公卿らの官職を解官
  • 66ヶ国中32ヶ国を平氏の知行国とする(クーデター前は17ヶ国)
  • 平家一門に権力集中し独裁政治開始の端緒となる
1180年 -
安徳
(1180~1185)
安徳天皇
以仁王の令旨⇨源頼政(77歳)が宇治平等院で敗死
福原京遷都(6月)
源頼朝が挙兵(伊豆)⇨石橋山の戦い(梶原景時が頼朝救う)⇨富士川の戦い(源範頼・義経が参加)
源義仲が挙兵(信濃)→北陸道を西上
侍所設置(別当・和田義盛)
平安京還都(11月)
平重衡が南都焼き討ち
1181年 平清盛(没)
養和
(1181~1182)
(~82年)養和の飢饉(特に西日本・『方丈記』に記述)→平氏に打撃
1182年 -
寿永
(1182~1185)
-
1183年 砺波山(倶利伽羅峠)の戦い(平維盛を破る)
源義仲入京
寿永二年十月宣旨(源頼朝に東国支配権承認)
1184年 源範頼・源義経が義仲追討
一ノ谷の戦い
元暦
(1184~1185)
公文所(後に政所)・問注所(執事・三善康信)設置
1185年 屋島の戦い
壇ノ浦の戦い
後鳥羽
(1183~1198)
『後鳥羽上皇像(後鳥羽天皇像・後鳥羽院像)』伝藤原信実作(大阪府水無瀬神宮所蔵)
『後鳥羽上皇像(後鳥羽天皇像・後鳥羽院像)』伝藤原信実作(大阪府水無瀬神宮所蔵)
  • 藤原信実によって描かれたと伝わる『後鳥羽上皇像』は承久の乱ののち後鳥羽上皇が隠岐に配流される前に出家前の姿を描かせた作品
文治
(1185~1190)
-





1
1
8
5
|
1
3
3
3
文治の勅許(守護・地頭設置・大江広元の建議・北条時政の要請)
京都守護・鎮西奉行設置
1188年 『千載和歌集』成立
  • 7番目の勅撰和歌集
  • 藤原俊成の撰
  • 寿永2年(1183年)後白河法皇の院宣を受けて藤原俊成が一人で撰し、文治4年(1188年)に完成し後白河院の奏覧に供される
1189年 奥州藤原氏滅亡(藤原泰衡)
奥州総奉行設置
1190年 源頼朝が従二位・右近衛大将→すぐ辞職
建久
(1190~1199)
-
1191年 政所(元公文所)設置(別当・大江広元)
1192年 後白河法皇(没)
源頼朝
(1192~1199)
『伝源頼朝像』伝藤原隆信作(京都神護寺所蔵)
『伝源頼朝像』伝藤原隆信作(京都神護寺所蔵)
在任 1192年(建久3年)7月12日 ~
1199年(建久10年)1月13日
源義朝
兄弟 源範頼(異母弟)・源義経(異母弟)
源頼家・源実朝
  • 藤原隆信の作とされる『伝源頼朝像』は足利直義の肖像画とする新説あり
源頼朝が征夷大将軍(後鳥羽)
1198年 -
土御門
(1198~1210)
『選択本願念仏集』成立(九条兼実の要請/法然が撰述)
1199年 源頼朝(没)→源頼家が左中将・第二代鎌倉殿→頼家の親裁停止→十三人合議制
-
正治
(1199~1201)
東大寺南大門再建(金剛力士立像は1203年)
1200年 梶原景時の乱
13世紀
1201年 -
建仁
(1201~1204)
-
1202年 -
源頼家
(1202~1203)
源頼家が征夷大将軍
1203年 比企能員の乱
源実朝
(1203~1219)
源実朝が征夷大将軍
源頼家が伊豆国修禅寺に幽閉される
北条時政が執権に就任(政所別当に就任)
1204年 源頼家暗殺
元久
(1204~1206)
-
1205年 畠山重忠の乱
牧ノ方事件→北条政子・義時により時政出家→伊豆に追放
北条義時が執権(政所別当に就任)
『新古今和歌集』成立
  • 藤原定家藤原家隆の撰
1206年 -
建永
(1206~1207)
-
1207年 -
承元
(1207~1211)
-
1210年 -
順徳
(1210~1221)
-
1211年 -
建暦
(1211~1213)
-
1212年 『方丈記』成立
1213年 和田合戦
→北条義時が侍所・政所の別当=執権の地位確立
建保
(1213~1219)
-
1219年 源実朝暗殺
鶴岡八幡宮の大銀杏(倒壊前)
鶴岡八幡宮の大銀杏(倒壊前)
  • 鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の儀式の際に公暁により暗殺
  • 直後に公暁も討たれる
-
承久
(1219~1222)
九条頼経(九条道家の子)が鎌倉下向(2歳)
1220年 『愚管抄』成立
1221年 『禁秘抄』成立(順徳天皇の有職故実書)
仲恭
(1221~1221)
承久の乱(北条泰時・北条時房を京都に派遣)
後堀河
(1221~1232)
六波羅探題設置(初代長官・北条泰時・北条時房)←もと京都守護
1222年 -
貞応
(1222~1224)
-
1223年 新補率法
1224年 伊賀氏の変
元仁
(1224~1225)
北条義時(没)←毒殺?
北条泰時が執権
1225年 評定衆・連署(北条時房)設置
嘉禄
(1225~1227)
北条政子(没)
大江広元(没)
1226年 -
九条頼経
(1226~1244)
九条頼経が征夷大将軍
1227年 -
安貞
(1227~1229)
-
1229年 -
寛喜
(1229~1232)
-
1230年 寛喜の飢饉(~31年)
1232年 -
貞永
(1232~1233)
貞永式目
四条
(1232~1242)
-
1233年 -
天福
(1233~1234)
-
1234年 金の滅亡(モンゴルの侵入)
文暦
(1234~1235)
-
1235年 -
嘉禎
(1235~1238)
-
1238年 -
暦仁
(1238~1239)
-
1239年 -
延応
(1239~1240)
-
1240年 -
仁治
(1240~1243)
-
1242年 -
後嵯峨
(1242~1246)
北条泰時(没)→北条経時が執権
1243年 -
寛元
(1243~1247)
-
1244年 -
九条頼嗣
(1244~1252)
九条頼嗣が征夷大将軍
1246年 北条時頼が執権
後深草
(1246~1259)
宮騒動
→九条頼経を京都に追放
1247年 -
宝治
(1247~1249)
宝治合戦(三浦泰村・光村を滅ぼす)
1249年 引付衆設置
建長
(1249~1256)
-
1252年 -
-
宗尊親王
(1252~1266)
宗尊親王が征夷大将軍(後嵯峨天皇の子)
1253年 建長寺建立(蘭渓道隆)
1256年 北条長時が執権
→北条時頼の得宗専制
康元
(1256~1257)
-
1257年 -
正嘉
(1257~1259)
-
1259年 -
正元
(1259~1260)
-
亀山
(1259~1274)
-
1260年 日蓮が『立正安国論』を幕府に上呈
文応
(1260~1261)
-
1261年 -
弘長
(1261~1264)
-
1263年 北条時頼(没)
1264年 執権北条長時(没)→北条政村(一門の長老)が執権
文永
(1264~1275)
-
1266年 -
惟康親王
(1266~1289)
-
1268年 蒙古使が来日
北条時宗が執権
1269年 元が国書送付
1271年 元王朝の成立[首都は大都(現在の北京)]
1273年 三別抄の乱を鎮圧→モンゴルが高麗征服完了
1274年 -
後宇多
(1274~1287)
文永の役(cf.『蒙古襲来絵巻』)
1275年 紀伊国阿氐河荘民の訴状(地頭・湯浅宗親を荘園領主に提訴)
建治
(1275~1278)
杜世忠ら元使一行を竜ノ口で斬首
金沢文庫創設
1276年 異国警固番役の強化
1278年 -
弘安
(1278~1288)
-
1279年 南宋の滅亡(元の侵入)
1281年 弘安の役
1282年 円覚寺建立(無学祖元)
1284年 北条時宗(没)→北条貞時が執権
1285年 霜月騒動(安達泰盛の乱)←平頼綱
1287年 -
伏見
(1287~1298)
-
1288年 -
正応
(1288~1293)
-
1289年 -
-
久明親王
(1289~1308)
-
1293年 平禅門の乱
永仁
(1293~1299)
鎮西探題設置←もと鎮西奉行
1297年 永仁の徳政令
  • 幕府の軍事力(軍役・番役)の維持を目的
1298年 -
後伏見
(1298~1301)
-
1299年 -
正安
(1299~1302)
一山一寧が元の国書を持ち勧降使として来日
  • 伊豆修禅寺に幽閉された後、建長寺の住職(北条貞時の帰依)
  • 朱子学伝える
  • 五山文学の祖
『一遍上人絵伝(一遍聖絵)』成立
『一遍聖絵』第7巻 四条釈迦堂
四条釈迦堂
京都の群衆
紀伊国高野山
『一遍聖絵』第7巻 四条釈迦堂
  • 円伊筆
  • 京都歓喜光寺蔵
14世紀
1301年 -
後二条
(1301~1308)
-
1302年 -
乾元
(1302~1303)
-
1303年 -
嘉元
(1303~1306)
-
1306年 -
徳治
(1306~1308)
-
1308年 -
守邦親王
(1308~1333)
-
花園
(1308~1318)
-
延慶
(1308~1311)
-
1311年 北条貞時(没)→北条高時が得宗
応長
(1311~1312)
『松崎天神縁起絵巻』成立
『松崎天神縁起絵巻』山口県・防府天満宮所蔵
  • 菅原道真を祀る松崎天神(防府天満宮)の由来が描かれた絵巻
  • 鋤を引く牛(牛耕)の様子が描かれるなど当時の庶民の暮らしを垣間見られる
1312年 -
正和
(1312~1317)
-
1316年 北条高時が執権
1317年 -
文保
(1317~1319)
文保の和談
1318年 -
後醍醐
(1318~1339)
後醍醐天皇
1319年 -
元応
(1319~1321)
-
1320年 『類聚神祇本源』成立
1321年 天皇親政開始
元亨
(1321~1324)
記録所設置
1322年 『元亨釈書』成立(虎関師錬の著/日本最初の仏教史書/紀伝体/後醍醐天皇に上呈)
1324年 -
正中
(1324~1326)
正中の変
1325年 建長寺船派遣
  • 建長寺修復のための造営料を得る目的で幕府公認で元に渡航した民間の貿易船
  • 得宗北条高時が派遣
  • 建長寺は1315年の火災で創建当初の建物の大部分を消失
  • 1325年7月ごろ出航し1326年9月ごろ帰航
1326年 -
嘉暦
(1326~1329)
-
1329年 -
元徳
(1329~1332)
-
1331年 -
元弘の変
光厳
(1331~1333)
鎌倉幕府が光厳天皇擁立
1332年 -
正慶
(1332~1333)
-
1333年 鎌倉幕府滅亡




後醍醐
(1318~1339)
元弘
(1331~1334)
-
護良親王
(1333~1333)
-
-
1334年 -
建武
(1334~1338)
『建武年中行事』成立
1335年 -
中先代の乱→足利直義が護良親王を殺害し成良親王らを連れて鎌倉を逃れる
成良親王
(1335~1336)
足利尊氏が中先代の乱を鎮圧
箱根・竹ノ下の戦い
1336年 -
-
延元
(1336~1340)
湊川の戦い
  • 足利尊氏が京都制圧→後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃走し抵抗→和睦し贋物の三種の神器を尊氏に渡す
光明
(1336~1348)
足利尊氏が光明天皇擁立
  • 後醍醐は花山院に幽閉される
建武式目制定






1
3
3
6
|
1
3
9
2
後醍醐天皇が吉野行宮に遷る
1338年 -
足利尊氏
(1338~1358)
足利尊氏が征夷大将軍に就任
  • 建武5年8月11日に光明天皇により補任される
  • 延元3年(建武5年)閏7月2日に藤島の戦い(越前国)で南朝方の新田義貞が戦死したことが背景
暦応
(1338~1342)
-
安国寺利生塔の建設開始(後醍醐以下の戦没者を弔う/夢窓疎石の勧め)
1339年 後醍醐天皇(没)
後村上
(1339~1368)
『神皇正統記』(常陸国小田城で完成)
1340年 『職原抄』(有職故実書)
興国
(1340~1346)
-
1342年 -
康永
(1342~1345)
天竜寺船(夢窓疎石の勧めで将軍足利尊氏が派遣)
1345年 -
貞和
(1345~1350)
-
1346年 -
正平
(1346~1370)
-
1348年 -
崇光
(1348~1351)
-
1350年 -
観応
(1350~1352)
観応の擾乱
1351年 -
-
1352年 観応半済令
後光厳
(1352~1371)
-
文和
(1352~1356)
-
1356年 -
延文
(1356~1361)
『菟玖波集』成立(完成・準勅撰は翌57年/佐々木道誉の推挙/古代~南北朝時代までの連歌を集大成/連歌の文学的地位を確立)
1358年 足利尊氏(没)
-
足利義詮
(1358~1367)
-
1361年 -
康安
(1361~1362)
-
1362年 -
貞治
(1362~1368)
-
1367年 足利義詮(没)
-
1368年 明建国(朱元璋・洪武帝)→元滅亡
応安
(1368~1375)
-
長慶
(1368~1383)
応安半済令
足利義満
(1368~1394)
足利義満が征夷大将軍(管領・細川頼之の補佐)
1369年 倭寇の禁圧要求を拒否(洪武帝→征西将軍・懐良親王)
1370年 -
建徳
(1370~1372)
-
1371年 九州探題・今川了俊
後円融
(1371~1382)
-
1372年 征西将軍府を攻撃・九州制圧
文中
(1372~1375)
『応安新式』成立
1375年 -
永和
(1375~1379)
-
天授
(1375~1381)
-
1378年 花の御所[室町殿]造営(室町を本拠に定める)
1379年 -
康暦
(1379~1381)
春屋妙葩が初代僧録になる
1381年 -
弘和
(1381~1384)
-
永徳
(1381~1384)
-
1382年 足利義満が左大臣
相国寺創建
1383年 准三后
後亀山
(1383~1392)
-
1384年 -
至徳
(1384~1387)
-
元中
(1384~1392)
-
1386年 足利義満が京都五山・鎌倉五山を確定
1387年 -
嘉慶
(1387~1389)
-
1389年 -
康応
(1389~1390)
土岐氏の乱(土岐康行の乱)(~90年)
1390年 -
-
1391年 明徳の乱(“六分の一殿”山名氏清)
1392年 李氏朝鮮建国(李成桂)→高麗滅亡
明徳の和約





1
3
3
6
|
1
5
7
3
後小松
(1382~1412)
明徳
(1390~1394)
南北朝合一
  • 南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に「三種の神器」を譲渡
1394年 -
応永
(1394~1428)
-
足利義持
(1394~1423)
足利義持が征夷大将軍
足利義満が太政大臣
1395年 足利義満が出家
1399年 応永の乱(大内義弘・今川貞世が結託)
15世紀
1401年 祖阿(僧)・肥富(博多商人)を明に派遣(「日本准三后某」の名)
1402年 明使来日→「日本国王源道義」として承認・大統暦を下賜
『難太平記』成立
1403年 永楽帝に「日本国王臣源」の名で朝貢
1404年 勘合を授かる(日明貿易の開始)
1408年 足利義満(没)
1411年 日明貿易(勘合貿易)中断
1412年 -
称光
(1412~1428)
-
1416年 上杉禅秀の乱
1419年 応永の外寇
1422年 『公事根源』成立(1423年?)
1423年 -
足利義量
(1423~1425)
足利義量将軍
1425年 足利義量(没)←酒の飲み過ぎ
-
1428年 足利義持(没)
正長
(1428~1429)
-
後花園
(1428~1464)
正長の土一揆
1429年 播磨の土一揆
足利義教
(1429~1441)
足利義教将軍←宇佐八幡宮で執り行われた籤引きにより将軍に選出
永享
(1429~1441)
琉球王国成立(中山王尚巴志が北山・中山・南山を統一)
1430年 『申楽談儀』成立(世阿弥の芸談を次男元能が筆録)
1432年 日明貿易(勘合貿易)再開
1438年 永享の乱(~39年)
1439年 『立正治国論』成立
足利学校再興
現在の足利学校
現在の足利学校
  • 永享年間に関東管領上杉憲実により再興されたのは確かだが、創建の時期は不明
  • 儒学を中心に易学・兵学・医学など実用的学問が講義される
  • 武蔵国の金沢文庫とともに中世における学問の一大中心地
  • 16世紀の最盛期には約3000人の生徒が学んだとされるが江戸時代に衰退し明治5年に廃校
  • 1549年イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによりインドのゴアのイエズス会への書簡の中で「日本国中最も大にして最も有名な、坂東の大学」と書かれ世界に伝えられる(のち『耶蘇会士日本通信』に記載)
  • ルイス・フロイス『日本史』に「日本全国にただ一つの大学であり公開学校と称すべきものが関東地方(下野国)の足利という所にある」と記される
1440年 結城合戦
1441年 -
嘉吉
(1441~1444)
嘉吉の乱
嘉吉の土一揆→室町幕府による初の徳政令
1442年 -
足利義勝
(1442~1443)
足利義勝将軍(9歳)
1443年 足利義勝(没)←赤痢
嘉吉条約(癸亥約定)←宗貞盛
1444年 -
文安
(1444~1449)
-
1449年 -
足利義政
(1449~1473)
足利義政将軍
宝徳
(1449~1452)
-
1452年 -
享徳
(1452~1455)
-
1454年 享徳の乱
1455年 -
康正
(1455~1457)
-
1457年 コシャマインの乱(←蠣崎氏が鎮圧)
長禄
(1457~1460)
-
1460年 -
寛正
(1460~1466)
-
1464年 -
後土御門
(1464~1500)
後土御門天皇像(西蓮寺蔵)
後土御門天皇像(西蓮寺蔵)
  • 在位:1464年8月21日(寛正5年)7月19日 - 1500年(明応9年)9月28日
  • 諱は成仁(ふさひと)
  • 後花園天皇の子
  • 後柏原天皇の父
  • 践祚から約3年後に応仁の乱が発生し、公卿は地方に離散、朝廷の財政は窮乏し、天皇の権威も地に落ちる
  • 応仁の乱の戦禍と財政逼迫のため皇居も転々とし朝廷の儀礼や祭事は衰微
  • 5度にわたり譲位しようとしたが、応仁の乱にともなう財源難で困難となり終身在位(これ以後天皇の終身在位が定着)
  • 葬儀の費用がなく死後43日目に執行(その間は御所に遺体が置かれたままだった)
-
1466年 -
文正
(1466~1467)
-
1467年 -
応仁の乱(~1477年)
『真如堂縁起絵巻』にある応仁の乱の場面
『真如堂縁起絵巻』にある応仁の乱の場面
『真如堂縁起絵巻』にある応仁の乱の場面
『真如堂縁起絵巻』にある応仁の乱の場面
『真如堂縁起絵巻』にある応仁の乱の場面
  • 文正2年(1467年)に発生し文明9年(1477年)まで足かけ11年間に及ぶ内乱
応仁
(1467~1469)
-
1469年 -
文明
(1469~1487)
-
1470年 『善隣国宝記』成立(相国寺僧瑞渓周鳳の著/漢文の外交史/足利義満の朝貢外交を批判)
1472年 『花鳥余情』成立
1473年 -
足利義尚
(1473~1489)
足利義尚将軍(9歳)
1478年 山科本願寺創建(完成は83年/周囲に堀と土塁を築き寺内町を形成)
1480年 『樵談治要』成立
1485年 山城の国一揆
1487年 -
長享
(1487~1489)
-
1488年 『水無瀬三吟百韻』成立←後鳥羽を祀る水無瀬神宮(摂津)に奉納
加賀の一向一揆(~1580年)
1489年 銀閣の上棟(完成は1490年の義政没後)
-
延徳
(1489~1492)
今堀地下掟(今堀日吉神社文書・近江国)
1490年 足利義政(没)
足利義材
(1490~1493)
-
1492年 -
明応
(1492~1501)
-
1493年 -
明応の政変(4)
  • 管領細川政元が日野富子と共に起こしたクーデター
  • 将軍足利義材(義稙)を廃位し京都龍安寺に幽閉、足利義遐(義澄)を擁立
  • 将軍家の系統は義稙系(義材/義稙-(義維)-義栄)と義澄系(義澄-義晴-義輝-義昭)に二分される
  • 幕政の実権は11代将軍足利義澄を傀儡として家臣の細川政元が掌握
  • 将軍の権威が完全に失墜し幕府影響力はかろうじて近畿にしか及ばなくなる
  • 全国(特に東国)で戦乱と下剋上の動きを恒常化させる契機
  • この事件を以て戦国時代の始まりとする見方が強い





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伊豆討入り(北条早雲が堀越公方の足利茶々丸を襲撃)
1494年 -
足利義澄
(1494~1508)
-
1495年 『新撰菟玖波集』成立(宗祇らの撰/永享年間以降約60年間の連歌が最も洗練された時期の作を撰集/準勅撰)
1500年 -
-
後柏原
(1500~1526)
  • 在位:1500年(明応9年)10月25日 - 1526年(大永6年)4月7日
  • 桓武天皇の別称柏原帝にちなむ
  • 諱は勝仁(かつひと)
  • 後土御門天皇の子
  • 後奈良天皇の父
  • 後土御門在位中から応仁の乱にともなう財源難で譲位が困難となり、後土御門死没を受け37歳の壮年で践祚
  • 応仁の乱のあとを受けて皇室財政の逼迫により即位式は践祚から21年後の永正18年(1521年)3月22日に行われる
-
16世紀
1501年 -
文亀
(1501~1504)
-
1504年 -
永正
(1504~1521)
-
1508年 -
-
足利義稙
(1508~1521)
-
1510年 三浦の乱
1518年 『閑吟集』成立(小歌の歌謡集)
1521年 -
大永
(1521~1528)
-
足利義晴
(1521~1546)
-
1523年 寧波の乱→大内氏が勘合貿易独占
1524年 『真如堂縁起絵巻』成立(京都真正極楽寺蔵)
1526年 -
-
後奈良
(1526~1557)
後奈良天皇木像(浄福寺安置)
後奈良天皇木像(浄福寺安置)
  • 在位:1526年(大永6年)4月29日 - 1557年(弘治3年)9月5日
  • 平城天皇の別称奈良帝にちなむ
  • 諱は知仁(ともひと)
  • 後柏原天皇の子
  • 正親町天皇の父
  • 皇室の経済力が最も衰微した時期の天皇
  • 戦乱にともなう皇室財政の逼迫により即位式は践祚から10年後の天文5年(1535年)2月26日に行われる(北条・今川・朝倉・大内氏らの戦国大名の献金)
  • 三条西実隆らに和漢の書の講義を聞くなど学問に深い造詣を持つ
  • 在位中にポルトガルにより鉄砲が伝えられた他、宣教師ザビエルが渡来
-
1528年 -
享禄
(1528~1532)
-
1532年 -
天文
(1532~1555)
法華一揆
  • 細川晴元と日蓮宗の京都町衆が山科本願寺を焼打ちし、以後約5年間にわたり京都で勢力を拡大
1536年 天文法華の乱
  • 延暦寺が日蓮宗21寺を焼打ちし法華一揆壊滅、以後約6年間京都で日蓮宗は禁教
1543年 鉄砲伝来
  • 1542年説も有力
1546年 -
足利義輝
(1546~1565)
-
1549年 キリスト教伝来
フランシスコ・ザビエル
ザビエルがとった航路
フランシスコ・ザビエル
  • 1549年、フランシスコ・ザビエル一行がジャンク船でインドのゴアを出発、日本人ヤジロウの案内で鹿児島に上陸し、日本に初めてキリスト教を伝える
  • 1549年、ザビエルは薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見し許可を得て1年間ほど滞在し布教活動を行う
  • 1550年、ザビエル一行は肥前国平戸に入り領主の松浦隆信の許可を得て布教活動を行った後、周防国山口に入り無許可で布教活動を行い、周防国の守護大名・大内義隆にも非公式に謁見するが怒りを買ったため、周防を発ち海路で堺に上陸
  • 1551年、ザビエル一行は京に入り、小西隆佐の歓待を受け、全国での布教の許可を得るため後奈良天皇と将軍足利義輝への拝謁を請願するがかなわず、戦乱により市中が荒廃し天皇も将軍も権威が失墜していることを悟り、京での布教を諦め山口を経て平戸に戻る
  • 平戸から山口に入ったザビエルは献上品を携え大内義隆に正式に謁見し布教の許可を得、山口で布教活動を行い約2ヵ月間で約500人にのぼる信徒を得る
  • その後、ザビエルは豊後国へ入り守護大名・大友義鎮(宗麟)の保護を受け布教活動を行ったのち、インドのゴアに戻ることを決意し日本を発ち、1552年ゴアに到着
  • 日本での布教のためには日本文化に大きな影響を与える中国での布教が不可欠と考えたザビエルは、日本からゴアに戻った後に中国に入るが、熱病にかかり1552年末に病死
1551年 勘合貿易の断絶(大内義隆が陶晴賢に討たれる→大内氏滅亡)
1552年 三好長慶
1553年 川中島の戦い(~64年)
1555年 -
弘治
(1555~1558)
-
1557年 -
-
正親町
(1557~1586)
-
1558年 -
永禄
(1558~1570)
-
1560年 田楽狭間の戦い
1561年 上杉謙信
1562年 清洲の会盟
1563年 三河の一向一揆
1565年 永禄の変
  • 永禄8年5月19日、13代将軍足利義輝が三好義継・松永久通らの軍勢によって京都二条御所に襲撃され殺害される
  • 松永久秀の直接関与はなし
-
1567年 美濃の斎藤氏滅ぼす→天下布武(岐阜城)
松永久秀が東大寺焼打ち
1568年 -
足利義栄
(1568~1568)
-
織田信長が足利義昭を奉じて入京
足利義昭
(1568~1588)
-
1569年 織田信長が撰銭令(京都を中心に畿内で施行)
織田信長が堺を直轄化
  • 堺が南蛮貿易で栄えていたことや鉄砲生産の中心地だったことが背景
  • 信長はこれにより鉄砲の大量入手を可能とする
1570年 姉川の戦い(近江国)
元亀
(1570~1573)
石山戦争(~80年)
1571年 延暦寺焼き討ち
越前吉崎道場
1573年 室町幕府滅亡(足利義昭を京都から追放)
-
天正
(1573~1592)
-
1574年 伊勢長島の一向一揆
1575年 長篠の戦い
『長篠合戦図屏風』成瀬家本(犬山城白帝文庫所蔵)・17世紀後半の作
『長篠合戦図屏風』・成瀬家本の模写(徳川美術館所蔵)・江戸時代後期の作
『長篠合戦図屏風』(名古屋市博物館所蔵)・17世紀中頃の作
『長篠合戦図屏風』成瀬家本(犬山城白帝文庫所蔵)・17世紀後半の作
越前の一向一揆
1576年 安土城
1577年 織田信長が安土城下に楽市令
1579年 安土宗論
1580年 加賀の一向一揆鎮圧
長崎をイエズス会に寄進(大村純忠)←1588年没収し直轄化
1581年 天目山の戦い
1582年 本能寺の変
山崎の戦い(摂津国・山城国の境)
清洲会議
天正遣欧使節
1583年 賤ケ岳の戦い(柴田勝家を破る)←近江国
大坂城の築城開始
1584年 小牧長久手の戦い(家康を臣従させる)
イスパニア平戸に来航
1585年 四国平定(長宗我部元親)、紀伊平定(根来・雑賀)
秀吉が関白
惣無事令(九州)
1586年 方広寺創建
  • 1586年に秀吉の発願により大仏を安置するため創建開始
  • 1595年に大仏・大仏殿完成
  • 1597年に方広寺の西方(境内の外)に耳塚築造
惣無事令(関東・奥羽)
豊臣賜姓
後陽成
(1586~1611)
秀吉が太政大臣
1587年 九州平定(島津義久)
バテレン追放令
  • 宣教師の20日以内の国外追放を命令
  • 船の来航は禁止せず
  • 徹底されず
  • キリシタン大名の大村純忠が領地の長崎をイエズス会へ寄進していたことが発覚したことが背景
  • 九州平定の帰路に博多で発令
北野茶大会
朝鮮に入貢と明への先導を要求
1588年 -
秀吉が長崎を没収し直轄化
聚楽第行幸(後陽成天皇)
刀狩令・海賊取締令
  • 海賊取締令も同時に発令
  • 方広寺大仏の造立を名目
1590年 小田原攻め、奥州平定(伊達政宗)←全国統一完成







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検地反対一揆(大崎・葛西一揆)
1591年 千利休が切腹
身分統制令
1592年 人掃令(関白豊臣秀次の名で発令)
文禄
(1592~1596)
文禄の役(壬辰倭乱)
1593年 碧蹄館の戦い
1595年 豊臣秀次が切腹
1596年 サン・フェリペ号事件
  • マニラを出港しノビスパンに向かったスペイン船サン・フェリペ号が暴風雨のため土佐国浦戸に漂着
  • 豊臣秀吉は増田長盛を派遣し調査
  • 船荷の没収に抗議した乗組員の発言が大問題に発展
  • 二十六聖人殉教のきっかけとなる
慶長
(1596~1615)
二十六聖人殉教
日本二十六聖人記念碑「昇天のいのり」
日本二十六聖人記念碑「昇天のいのり」
  • 長崎でキリシタン26名が処刑される
  • サン・フェリペ号事件をきっかけ
1597年 慶長の役(丁酉倭乱)
1598年 豊臣秀吉(没)
1600年 リーフデ号事件(オランダ船)[豊後](英人三浦按針・蘭人耶揚子は家康の外交顧問)
イギリス東インド会社設立
関ヶ原の戦い
17世紀
1601年 慶長金銀
慶長大判
慶長小判。両替屋の刻印が多数見られる。
慶長一分判
慶長丁銀。中央部に両替屋の刻印が見られる。
慶長豆板銀
慶長大判
  • 金貨(大判・小判・一分判)と銀貨(丁銀・豆板銀)
  • 慶長大判ははじめ京都の大判座で後藤徳乗が鋳造
  • 慶長から元禄の貨幣改鋳(1695年)まで95年間にわたって通用し、継続的かつ大量に鋳造されたことにより近世的貨幣制度が整備された
(~)寺院法度(諸宗諸本山法度)
1602年 オランダ東インド会社設立
1603年 -





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徳川家康
(1603~1605)
江戸幕府(後陽成天皇)
1604年 糸割符制度
  • 長崎・京都・堺の三カ所商人(1631年以降は江戸・大坂も含めた五カ所商人)
  • ポルトガル商人の利益独占阻止・のち明(1631年)とオランダ(1641年)にも適用
  • ポルトガル人の南蛮貿易に大打撃
松前氏承認
1605年 -
徳川秀忠
(1605~1623)
徳川秀忠将軍
  • 徳川秀忠の将軍就任後も徳川家康が大御所として死ぬまで実権を握り続ける
1607年 回答兼刷還使
1609年 ドン=ロドリゴ(ロドリゴ・デ・ビベロ)ルソン前総督が漂着[上総]
オランダ平戸商館
己酉約定(慶長条約)
琉球出兵(島津家久)
金1両=銀50匁=銭4貫文
1610年 ドン=ロドリゴをノヴィスパンに送還し田中勝介(京都商人)が同行
1611年 -
後水尾
(1611~1629)
-
1612年 禁教令(天領)
1613年 禁教令(全国)
イギリス平戸商館
慶長遣欧使節(伊達政宗が家臣の支倉常長をスペインに派遣)→ローマ教皇に謁見→1620年に帰国
1614年 高山右近らマニラ追放
高瀬川開通(秋頃)
  • 角倉了以が開掘した運河
  • 京都二条~伏見
  • 名前は輸送に高瀬舟が用いられたこと由来
大坂冬の陣
1615年 大坂夏の陣
一国一城令
武家諸法度元和令
元和
(1615~1624)
禁中並公家諸法度
  • 全17ヵ条からなる江戸幕府の朝廷統制の基本法令
  • 天皇・上皇・諸公家・親王家・諸門跡の役儀・身分・服制・序列などが定められる
  • 京都二条城で前関白二条昭実・将軍秀忠・大御所家康の3名が連署して制定
  • 江戸幕府終焉まで内容の改訂は行われず
  • 金地院崇伝が起草
1616年 貿易港を長崎・平戸に限る(中国船以外)
徳川家康(没)
1617年 「東照大権現」の神号勅許
1622年 元和の大殉教
『元和大殉教図』
『元和大殉教図』
  • 長崎でキリシタン55名が処刑される
  • 幕府は翌年1623年にも江戸でキリシタン50名を処刑
1623年 -
徳川家光
(1623~1651)
徳川家光将軍
  • 徳川家光の将軍就任後も徳川秀忠が大御所として死ぬまで実権を握り続ける
イギリス平戸商館閉鎖
  • オランダとの貿易競争に敗北し撤退
1624年 イスパニア船来航禁止
寛永
(1624~1644)
-
1627年 紫衣事件
1628年 末次平蔵船の朱印状破られる[台湾]
1629年 踏絵の開始←1628年?
  • 長崎で開始
  • 長崎奉行の発案
明正
(1629~1643)
-
1630年 禁書令
1631年 奉書船制度(朱印状の海外携行禁止・朱印船の海外渡航を老中の許可制へ)
柳川一件(~1635年)
1632年 徳川秀忠(没)
1633年 寛永十年禁令(鎖国令①)
  • 奉書船以外の渡航禁止
  • 在外5年以上の日本人帰国禁止
1634年 鎖国令②
  • 鎖国令①の最通達
  • 長崎に出島の建設を開始
1635年 武家諸法度寛永令
  • 参勤交代の義務化
  • 500石積以上の大船建造禁止
  • 林羅山が起草
諸士法度公布
  • 旗本法度ともいう
  • 旗本・御家人を対象とする法令
  • 1万石以上の大名を対象とした武家諸法度に対応する法令
  • 忠孝・軍役・兵具・屋作・嫁娶・振舞・音信・喧嘩口論・火事・知行所務・知行境野山水論・百姓公事(くじ)・跡目(末期養子の禁止)・徒党・相続・職務・衣服・倹約など23カ条
  • 天和3年(1683年)武家諸法度天和令に統合される
寛永十二年禁令(鎖国令③)
  • 日本人の海外渡航・帰国全面禁止
  • 明船の入港を長崎に限定(1631年明への糸割符制度適用を背景)
1636年 寛永通宝
鎖国令④
  • 貿易に関係ないポルトガル人と妻子をマカオへ追放
  • 残りのポルトガル人を出島移送
1637年 島原の乱(~1638年)
  • 元キリシタン大名領の島原・天草地方で民衆が原城跡に籠城
  • 牢人の益田時貞(天草四郎)が首領
  • 老中松平信綱がオランダ軍艦の協力を得て鎮圧
  • 禁教の徹底とオランダが対日貿易を独占するきっかけとなる
1639年 寛永十六年禁令(鎖国令⑤)
  • 出島のポルトガル人追放・ポルトガル船かれうたの来航禁止
  • 幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを予め確認
1640年 ~寺請制度
1641年 オランダ商館移転[平戸→出島]←鎖国完成
1642年 寛永の飢饉(~1643年)
1643年 田畑勝手作の禁、田畑永代売買の禁
後光明
(1643~1654)
-
1644年 明が滅亡
正保
(1644~1648)
-
1645年 日光東照社に宮号→日光東照宮
1646年 日光例幣使(幕府の要請)・伊勢例幣使の再興許可
1648年 -
慶安
(1648~1652)
-
1649年 慶安の触書
1651年 徳川家光(没)
慶安の変(由井正雪の乱)
徳川家綱
(1651~1680)
徳川家綱将軍
末期養子の禁緩和
1652年 -
承応
(1652~1655)
佐倉惣五郎一揆
  • 1653年とする説もあり真偽不明
  • 佐倉惣五郎は下総佐倉藩領下の義民
  • 藩主堀田正信の重税を農民を代表し将軍に直訴
  • 租税は軽減されたが1653年8月3日妻と子4人とともに処刑
1653年 玉川上水完成
現在の玉川上水
現在の玉川上水
  • 玉川庄右衛門・清右衛門の兄弟
  • 工事期間約8ヶ月
  • 江戸の飲み水として引かれる
  • 保科正之が開削を発案し尽力
  • 武蔵野新田に水を供給
1654年 黄檗宗(隠元)
-
後西天皇
(1655~1663)
1655年 -
明暦
(1655~1658)
糸割符制度廃止→相対自由貿易
1657年 明暦の大火(振袖火事)
『江戸火事図巻』(1814年)
『江戸火事図巻』(1814年)
  • 明暦3年1月18日~1月20日までに江戸の大半を焼く
  • 江戸城天守閣焼失
1658年 -
万治
(1658~1661)
-
1659年 道中奉行設置
1661年 -
寛文
(1661~1673)
最初の藩札発行開始
  • 寛文1年越前福井藩松平家が発行した銀札が最初
  • 領内のみで通用
  • 金銀の減産を背景に貨幣量不足を補う役割
  • 発行には幕府の許可が必要
  • 1871年廃藩置県に伴う廃止までに全国諸藩の約8割にあたる244藩が発行
1663年 武家諸法度寛文令・殉死の禁止(5.23)
  • 同時に出された殉死の禁止は武家諸法度に組み込まれず口頭伝達
  • 殉死の禁止は武家諸法度天和令から条文に組み込まれ明文化
  • 殉死の禁止は大名証人制の廃止(1665年)とあわせて「寛文の二大美事」と呼ばれる
霊元
(1663~1687)
-
1664年 寛文の御朱印改
1665年 大名証人制の廃止
  • 証人制は大名家臣の子弟を人質
  • 殉死の禁止(1663年)とあわせて「寛文の二大美事」と呼ばれる
諸宗寺院法度・諸社禰宜神主法度
1666年 諸国山川掟
1669年 シャクシャインの戦い
  • アイヌの首長シャクシャインが全蝦夷地のアイヌを糾合して起こした蜂起
  • 幕府は津島藩兵を派遣
  • シャクシャインは和睦の酒宴で謀殺される
1670年 箱根用水完成
十人両替発足
  • 大坂で両替商(本両替・銭両替)の統制・幕府公金の出納や為替の取り扱い・幕府御用金の調達・米価の調節・金銀相場の支配など
  • 鴻池屋・天王寺屋・平野屋などが世襲で就任
  • 1662年幕府が天王寺屋五兵衛・小橋屋浄徳・鎰屋六兵衛の3人の両替屋に輸出用小判買上を命じたのを端緒に、1670年鴻池屋・平野屋などを加えて10名となり制度化
  • 必ずしも定員10名は維持されなかった
1671年 河村瑞賢の海運整備(~72年)
1672年 河村瑞賢の海運整備(~72年)
1673年 分地制限令
延宝
(1673~1681)
越後屋呉服店開業(三井高利)
1680年 -
-
徳川綱吉
(1680~1709)
徳川綱吉将軍
1681年 -
天和
(1681~1684)
堀田正俊が大老に就任(12.11)
1682年 勘定吟味役設置
1683年 武家諸法度天和令
  • 末期養子の禁止緩和・殉死の禁止が条文に組み込まれ明文化
  • 諸士法度を統合
1684年 -
貞享
(1684~1688)
服忌令(2.30)
大老堀田正俊暗殺(8.28)
  • 若年寄稲葉正休により江戸城内で刺殺
  • 稲葉正休も即座に斬殺され稲葉家は改易処分
貞享暦の採用決定(10.29)
  • 渋川春海が作成した太陰太陽暦
  • 貞享2年1月1日に宣明暦(貞観4年1月1日から貞享元年12月30日まで823年間使用された太陰太陽暦)から改暦され宝暦4年12月30日までの70年間使用
  • はじめ朝廷は明で使われていた大統暦に改暦する予定で貞享元年3月3日には大統暦改暦の詔まで出されていたが撤回
  • 宝暦5年1月1日宝暦暦(太陰太陽暦)に改暦される
天文方設置
  • はじめ寺社奉行のち若年寄のもとに設置
  • 1684年12月1日に渋川春海が天文方に就任
1685年 糸割符制度再開→定高仕法
鉄砲禁止令
(~)生類憐みの令
1687年 -
東山
(1687~1709)
大嘗祭(11.16)
  • 東山天皇の即位に伴う
  • 221年ぶり
1688年 唐人屋敷
  • 定高貿易仕法(1685年)による貿易制限(清船年間銀6000貫)に伴い発生する抜荷(密貿易)の防止を目的
清船70隻
元禄
(1688~1704)
柳沢吉保が側用人
1689年 歌学方(北村季吟)
1690年 湯島聖堂
1691年 大学頭(林鳳岡)
別子銅山開坑
1694年 賀茂の葵祭再興
  • もとは賀茂祭と呼ばれていたが応仁の乱(1467~1477年)以降は廃絶し約200年間の中断の後、幕府の援助や霊元上皇らの尽力により再興され葵祭と呼ばれるようになる
  • 1870年まで継続後、中断と再興を繰り返す
江戸十組問屋結成
  • 江戸十組問屋の結成に対応して、ほぼ同時期に大坂でも十組問屋(江戸十組問屋の注文に応じて商品を集荷し菱垣廻船で独占的に輸送)が結成され享保年間に二十四組問屋となる
1695年 元禄金銀
1697年 宮崎安貞『農業全書』刊行
  • 日本最初の体系的農書で刊本としては日本最古の農書
  • 主に先進地である畿内・中国諸国の視察・見聞の集大成
  • 文字を解さない一般百姓にも理解しやすいよう絵図を多く用いる
  • 明治に至るまで版を重ねて広く流布し日本の農業に多大な影響を与える
  • 明の暦数学者・徐光啓の著作『農政全書』の影響
  • 小農経営の一般化を背景
1700年 金1両=銀60匁=銭4貫文
18世紀
1702年 赤穂事件
1704年 柳沢吉保が甲府藩主
宝永
(1704~1711)
-
1705年 禁裏御料の増加
1706年 -
1707年 土屋又三郎『耕稼春秋』成立
  • 元禄期の加賀国城下町金沢周辺の農業や農具について詳述した農書
富士山の宝永大噴火(11.23)
宝永噴火を描いた絵図『夜ルの景気』
宝永噴火を描いた絵図『夜ルの景気』
  • 1708年、被災地復興のため100石につき金2両の諸国高役金(国役金)を全国の大名領や天領から徴収
  • 約49万両が幕府に上納される
1708年 諸国高役金
1709年 -
-
徳川家宣
(1709~1712)
徳川家宣将軍(4.2)
間部詮房が側用人に就任(4.14)
中御門
(1709~1735)
正徳の治(~1716年)
1710年 閑院宮家の創設
宝永金銀
  • 金貨(小判・一分判金)と銀貨(宝字銀・永字銀・三宝銀・正徳年間鋳造の四宝銀)
  • 金貨は宝永金・乾字金とも呼ばれ金の含有率を慶長金と同じにして重さ半分
  • 物価は下がらず経済混乱
1711年 朝鮮通信使待遇簡素化
正徳
(1711~1716)
大君一件(日本国大君→日本国王)
1712年 荻原重秀罷免
-
1713年 -
徳川家継
(1713~1716)
徳川家継将軍
分地制限令改正
1714年 正徳金銀
  • 慶長金銀と同品質の小判・一分金・丁銀・豆板銀を鋳造
  • 元禄金銀・宝永金をあわせて改鋳
  • 正徳小判は正徳4年5月15日より通用開始
1715年 海舶互市新例(正徳新例・長崎新例とも)
1716年 -
-
享保
(1716~1736)
-
徳川吉宗
(1716~1745)
徳川吉宗将軍
1717年 大岡忠相が江戸町奉行
1719年 相対済し令
1720年 漢訳洋書輸入禁緩和
  • 禁書令(1630年)の緩和
  • 洋学の流入をもたらす
1721年 目安箱設置
勘定奉行→公事方・勝手方
田中丘隅『民間省要』を幕府に献上
1722年 小石川養生所設置
上米の制
  • 五代将軍徳川綱吉の時期(17世紀後半~18世紀初頭)における、江戸人口増加による都市基盤整備の必要・火事の発生(明暦の大火など)・佐渡金山銀山の減産・将軍の奢侈や濫費(寺社造営など)・元禄期以降の相次ぐ貨幣改鋳による経済混乱などを背景に、幕府財政が困窮
  • 1730年までの8年間実施
  • 参勤交代の江戸在府期間を半年(従来は1年)に緩和
  • 幕府財政の各藩への依存による幕藩主従関係の動揺を招く
  • 享保15年(1730年)に廃止されるまでの8年間実施
検見法→定免法
江戸日本橋に新田開発奨励の高札
  • 新田開発の資本を広く民間に求める
  • これを契機に全国各地で新田開発が盛んに行われるようになる
  • これを契機に武蔵野新田など成立
質流し禁令→質地騒動(越後国頸城(1622)・出羽国長瀞(1623))
1723年 質流し禁令撤廃
足高の制
1724年 物価引下げ令
倹約令
懐徳堂設立
  • 儒学者中井甃庵が師の三宅石庵を学主に迎え大坂の豪商らの出資で設立した私塾
  • 大坂庶民の学校として主に朱子学を教育
  • 1726年将軍徳川吉宗から公認されて官許学問所(準官学)となる
  • 4代学主中井竹山(中井甃庵の長男)の時代に最盛期を迎え、質・量ともに官学の昌平坂学問所をしのぐ
  • 富永仲基・山片蟠桃らを輩出
1726年 新田検地条目制定
  • 新田検地・開発に関する法令
  • 検地を受ける村方での準備に関する規定および、検地の施行にあたっての地主・作人・反別・等級などの決定方法とそれらに伴う雑則
1728年 見沼代用水完成
  • 利根川を水源とする新田開発のための灌漑農業用水
  • 幕府の役人井沢弥惣兵衛により切削
三井高房『町人考見録』成立
  • 三井高利の孫の三井高房が子孫のために残した教訓書
  • 大名貸の戒め
1730年 堂島米市場公認
1732年 享保の飢饉
  • 西日本中心に発生
  • 蝗(いなご)・ウンカの大量発生
1733年 江戸で初めての打ちこわし(米商・高間伝兵衛宅)
1734年 (~)破免検見
1735年 『蕃藷考』刊行(青木昆陽)
桜町
(1735~1747)
-
1736年 -
元文
(1736~1741)
元文金銀
1740年 青木昆陽(書物方)
1741年 -
寛保
(1741~1744)
-
1742年 公事方御定書
1744年 御触書寛保集成(宝暦・天明・天保もあり)
延享
(1744~1748)
-
1745年 -
-
徳川家重
(1745~1760)
徳川家重将軍
1747年 -
桃園
(1747~1762)
-
1748年 -
寛延
(1748~1751)
-
1751年 徳川吉宗(没)
宝暦
(1751~1764)
-
1754年 郡上一揆(美濃)
久留米藩全藩一揆
1756年 大岡忠光が側用人に就任
1758年 宝暦事件
1759年 山脇東洋『蔵志』刊行
  • 日本最初の実証的解剖書
  • 1754年山脇東洋が京都所司代の許可を得て死刑囚を解剖しその記録をまとめたもの
1760年 大岡忠光(没)
-
徳川家治
(1760~1786)
徳川家治将軍
1761年 徳川家重(没)←田沼意次の重用を家治に遺言
1762年 -
-
後桜町
(1762~1770)
-
1764年 伝馬一揆
明和
(1764~1772)
-
1765年 明和五匁銀
1767年 田沼意次が側用人に就任
赤子養育法
  • 荒廃した農村の人口維持・増加政策
  • 間引きの禁止
明和事件
1768年 寛永通宝の真鍮四文銭
1770年 -
後桃園
(1770~1779)
-
1772年 明和の大火
南鐐二朱銀
安永
(1772~1781)
田沼意次が老中に就任
1774年 『解体新書』刊行
  • 日本最初の本格的な西洋医学の翻訳書
  • 豊前国中津藩医の前野良沢・若狭国小浜藩医の杉田玄白を中心に中川淳庵・桂川甫周らの協力
  • ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの解剖学入門書のオランダ語訳書『ターヘル・アナトミア』を主な底本として日本語に翻訳した書物
  • 杉田玄白・前野良沢らが1771年江戸小塚原刑場で死刑囚を腑分けし『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚き翻訳に着手
  • 全文を漢文で記述
  • 翻訳作業に3年半の歳月
  • 図譜は平賀源内の紹介により秋田藩士で画家の小田野直武(平賀源内から洋画を学び司馬江漢に影響を与える)が描く
  • 翻訳の際に神経・軟骨・動脈などの語が作られる
  • 漢方医学で知られていなかった膵臓・リンパ管を指摘
  • 誤訳が多かったため後に大槻玄沢が訳し直し1826年に『重訂解体新書』刊行
  • 杉田玄白の回想録『蘭学事始』は翻訳の苦心談
1778年 勘定所御用達
ロシア船来航(厚岸)
1779年 -
-
光格
(1780~1817)
1780年 -
1781年 絹糸貫目改所→上州絹一揆
天明
(1781~1789)
-
1782年 天明の飢饉
1783年 浅間山の噴火
白河藩主松平定信
赤蝦夷風説考(工藤平助)
1784年 若年寄田沼意知暗殺
  • 江戸城中で旗本佐野政言が刺殺
  • 佐野政言には切腹が命じられ佐野家は改易されるが「世直し大明神」と崇められる
  • 田沼意次の権勢が衰え始める契機
1785年 『三国通覧図説』刊行
最上徳内→千島派遣・調査(~86年)
1786年 『海国兵談』成立(夏頃)
大槻玄沢が江戸に私塾「芝蘭堂」を設立(8)
徳川家治死没(8.25)
田沼意次が老中を辞任(8.27)
1787年 -
徳川家斉
(1787~1837)
徳川家斉将軍
天明の打ちこわし(大阪→全国)
  • 田沼意次の失脚から松平定信の老中首座への就任までの政治的空白期において発生
松平定信が老中首座に就任
  • 御三家の推挙
  • 8代将軍徳川吉宗の孫・田安宗武の子
  • 元陸奥国白河藩藩主
  • 天明の飢饉に対応し「寛政の改革」を実施
  • 自叙伝『宇下人言』には白河藩の藩政や「寛政の改革」の内情、自身の学問観や思想などについて詳細に記載
倹約令
本居宣長『秘本玉くしげ』成立(12)
  • 紀伊藩主徳川治貞の諮問に応え1787年12月に別巻『玉くしげ』とともに献上
  • 古道による政治論(政治・経済・百姓一揆についての本居の思想を述べたもの)で、時弊を具体的に指摘し為政者の心構えを説く
1788年 大槻玄沢『蘭学階梯』刊行
田沼意次(没)
勘定所御用達設置
  • 両替商を中心に江戸の豪商10名を選出し任命
  • 幕府財政の悪化に対応し商人の資金力を利用
  • 米価調節や諸物価の安定をはかるなどの目的
  • 幕末まで存続
1789年 囲米
棄捐令
寛政
(1789~1801)
尊号一件
衣服・調度品の奢侈禁止
クナシリ・メナシの戦い
  • 場所請負制への不満などから東蝦夷地で起きたアイヌ民族の松前藩に対する近世最後の武力蜂起
  • 松前藩により鎮圧
中井竹山『草茅危言』成立
  • 1788年松平定信が大坂で懐徳堂学主の儒学者中井竹山に政治・経済・学問などについて諮問し、これに応じて1789年(寛政1年)松平定信に献上した意見書
  • 幕藩制の本質にかかわる政治・経済・社会政策など経世上の諸問題を多岐にわたって建策
  • 広く一般庶民の生活に言及
  • 寛政改革に影響を与える
1790年 旧里帰農令
人足寄場(石川島)
寛政異学の禁
1791年 七分金積立
出版統制令(洒落本・黄表紙)
男女混浴禁止
1792年 ラクスマン来航(根室・通商要求)
諸大名に海防命令
蝦夷地方防備作
林子平処罰
1793年 ロシア通商拒否(←長崎入港を許可)
伊豆・相模を巡見
松平定信辞職
1797年 昌平坂学問所
1798年 近藤重蔵→蝦夷・千島
『古事記伝』完成
1799年 東蝦夷地直轄化
1800年 伊能忠敬(蝦夷)
19世紀
1801年 鎖国論(志筑忠雄)
享和
(1801~1804)
-
1802年 蝦夷奉行→箱館奉行
1804年 レザノフ来航(長崎)
文化
(1804~1818)
-
1805年 関東取締出役
1806年 文化の撫恤令(文化三年)
1807年 全蝦夷地直轄化(箱館奉行→松前奉行)
1808年 フェートン号事件(長崎・松平康英自害)
間宮林蔵が樺太探検
1811年 ゴローウニン事件(国後島)
1812年 高田屋嘉兵衛抑留
1813年 ゴローウニン・高田屋嘉兵衛の交換釈放
江戸地廻り経済圏の強化
1817年 -
仁孝
(1817~1846)
-
1818年 -
文政
(1818~1830)
-
1821年 蝦夷地→松前氏に復封
大日本沿海輿地全図の完成(天文方高橋景保)
1822年 大蔵永常『農具便利論』刊行
1824年 イギリス人が常陸大津浜・薩摩宝島に上陸
1825年 文政の異国船打払令(無二念打払令・文政八年)
1827年 文政の改革
寄場組合・改革組合村
1828年 シーボルト事件
1830年 -
天保
(1830~1844)
-
1831年 防長大一揆
1833年 天保の飢饉
1836年 甲斐国郡内一揆(幕領)(8)
三河国加茂一揆(幕領)(9.21~9.25)
1837年 大塩平八郎の乱(2.19)
生田万の乱(越後柏崎の国学者)(6.1)
モリソン号事件(6.28~6.29)
  • 日本人漂流民7名を伴い通商・布教を目的にマカオから浦賀沖に来航したアメリカ船モリソン号(米国貿易商社所属・当時はイギリス船と思われていた)が6月28~29日に日本側の砲撃を受け江戸湾を退去
  • 薩摩山川で再度砲撃を受けマカオに帰る
  • 砲撃は異国船打払令の適用
  • 幕府は翌年オランダ商館長が提出した風説書(モリソン号をイギリス船としていた)によって同船の性格を知り、外来船の処置について評議
  • 評議内容が民間に漏れて渡辺崋山は『慎機論』を高野長英は『戊戌夢物語』を著して幕府の排外政策を批判し蛮社の獄で処罰を受ける
徳川家慶
(1837~1853)
徳川家慶将軍
  • 徳川家慶の将軍就任後も徳川家斉が大御所として死ぬまで実権を握り続ける
1838年 徳川斉昭『戊戌封事』成立(9)
  • 大塩平八郎の乱やモリソン号事件など国内外の危機的状況(内憂外患)を重くみた幕政改革の長大な意見書
  • 翌1839年将軍徳川家慶に提出
1839年 蛮社の獄(5)
  • 蛮社は国学者らによる尚歯会の蔑称で蛮学社中の略
  • 幕府内の蘭学を嫌う保守勢力の中心であった鳥居耀蔵による弾圧事件
  • 実際には鳥居耀蔵と江川英龍との確執を背景に、鳥居が江川とその仲間を政敵とみなし罪に落とそうとした冤罪事件(江川は老中水野忠邦にかばわれ無事だった)
  • 高野長英は永牢(のち逃亡の末自殺)・渡辺崋山は蟄居(のち切腹)・小関三英は逮捕をおそれて自殺
水野忠邦が老中首座に就任(12)
1840年 三方領知替え反対一揆(川越→庄内→長岡)
アヘン戦争
1841年 徳川家斉死没(閏1.7)
  • これを機に将軍徳川家慶に実権が移り天保の改革始まる
倹約令
水戸藩校弘道館開校(8.1)
  • 水戸藩主徳川斉昭により藩政改革の一環として創設
  • 初代教授頭取に青山拙斎(延于)・会沢安(正志斎)
  • 後期水戸学の尊王攘夷思想を鼓吹・洋学も取り入れる
  • 弘道館設立の目的と教育方針を漢文で記した書が藤田東湖起草の『弘道館記』(1838年成立)
  • その注釈書『弘道館記述義』(藤田東湖起草・1846年成立)は会沢正志斎『新論』(1825年成立・1857年刊行)とともに後期水戸学の尊王攘夷論を代表する著作として全国に喧伝され、各地の藩校で教科書として用いられるなど、維新の志士たちに広く愛読され幕末~明治期の思想に大きな影響を与える
株仲間解散令(12.13)
1842年 天保の薪水給与令
出版統制令
南京条約
1843年 上知令
新潟奉行設置(6.11)
人返しの法
棄捐令
水野忠邦失脚
1844年 オランダ国王ウィレム2世の開国勧告→家慶は拒否
弘化
(1844~1848)
-
1846年 -
-
孝明
(1846~1866)
ビッドル来航(閏5.26)
ビッドルの旗艦コロンバス号(国立公文書館所蔵)
浦賀におけるコロンバス号とヴィンセンス号
江戸湾を去るコロンバス号とヴィンセンス号(横須賀市自然・人文博物館蔵)
  • 東インド艦隊司令長官
  • 浦賀に入港
  • 威圧を避け小型軍艦2隻のみ
  • 上陸は許されず
  • 開国を要求したが幕府に拒否され退去
1848年 -
嘉永
(1848~1854)
-
1851年 株仲間再興令(3.9)
1853年 ペリー来航(6.3)
徳川家慶死没(6.22)
阿部正弘の意見書
徳川斉昭の幕政参与
プチャーチン来航(長崎)(7.18)
徳川家定
(1853~1858)
徳川家定将軍
プチャーチン再来航
1854年 ペリー再来航(1.16)
日米和親条約(神奈川条約)(3.3)→下田・箱館
徳川斉昭の辞任
琉米修好条約(6.17)
日英和親条約(8.23)
安政
(1854~1860)
日露和親条約(12.21)
  • 下田条約とも呼ばれる
  • 日本側全権の大目付筒井政憲・勘定奉行川路聖謨とロシア側全権の海軍中将プチャーチンとの間で伊豆の下田で締結
  • ロシアに下田・箱館・長崎を開港
  • 択捉島・得撫島間を国境とし樺太を両国雑居地と規定
  • 片務的最恵国待遇
  • 領事裁判権は相互に承認
1855年 長崎海軍伝習所設立(9.10)
『長崎海軍伝習所絵図』
  • 長崎奉行所に開設
  • オランダ人海軍士官から近代的海軍の軍事学を学ばせる
  • 幕臣・旗本・諸藩士らが学び勝海舟・榎本武揚・五代友厚・佐野常民ら輩出
  • 1859年2月閉鎖
  • 明治政府海軍創設の基礎となる
堀田正睦が老中首座に就任(10.9)
日蘭和親条約(12.23)
1856年 米総領事ハリス来日(7.21)
タウンゼント・ハリス
現在の玉泉寺(ぎょくせんじ)
公使館が置かれた頃の善福寺
  • オランダ語通訳兼秘書ヒュースケンを伴い伊豆の下田へ入港
  • 下田玉泉寺に領事館を置く
  • 日米修好通商条約の締結に伴い初代駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖して、1859年6月に江戸の元麻布善福寺に公使館を置く
アロー戦争(第二次アヘン戦争)
一橋派
1857年 阿部正弘死没(6.17)
1858年 井伊直弼が大老に就任(4.23)
天津条約(アロー戦争の事後処理/清国と英仏露米間)(6.13~6.27)
日米修好通商条約(長崎・神奈川・新潟・兵庫)(6.19)
安政五カ国条約
条約名 相手国 調印日
日米修好通商条約 アメリカ合衆国 安政5年6月19日
日蘭修好通商条約 オランダ 安政5年7月10日
日露修好通商条約 ロシア帝国 安政5年7月11日
日英修好通商条約 イギリス 安政5年7月18日
日仏修好通商条約 フランス 安政5年9月3日
安政の大獄(6~60.3.3)
徳川家定(没)(7.6)
安政の五ヶ国条約
  • 日米修好通商条約(6.19)
  • 日蘭修好通商条約(7.10)
  • 日露修好通商条約(7.11)
  • 日英修好通商条約(7.18)
  • 日仏修好通商条約(9.3)
橋本左内・頼三樹三郎ら処刑(10.7)
徳川家茂
(1858~1866)
徳川家茂将軍(10.25)
1859年 貿易開始(横浜・長崎・箱館)←1860年新潟・1863年兵庫
大蔵永常『広益国産考』刊行
  • 初め『国産考』2巻として1842年刊行・後これを含めた『広益国産考』8巻として1859年刊行・全巻執筆を終えたのは1844年
  • 宮崎安貞の『農業全書』とともに江戸時代二大農書といわれる
1860年 安藤信正が老中に就任(1.15)
咸臨丸がアメリカに向けて浦賀を出発(1.19)
咸臨丸(1860年頃)
ポーハタン号(撮影場所・日時不明)
咸臨丸(1860年頃)
  • アメリカ軍艦ポーハタン号(日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節団の正使一行が乗艦)の別船として派米
  • 1857年オランダ製・補助蒸気機関をもつ長崎海軍伝習所の訓練艦
  • 軍艦奉行木村喜毅・艦長勝海舟のほか福沢諭吉・通訳のジョン万次郎ら日本人90名以上が便乗
  • 38日かけて太平洋を横断し2月26日サンフランシスコ到着
  • ホノルルを経由し5月5日に浦賀に帰港
  • ポーハタン号は3日遅れて1月22日に品川を出発・正使の外国奉行新見正興ほか目付小栗忠正ら乗せる・4月ワシントンD.C.で批准書交換・9月帰国
桜田門外の変(3.3)
万延
(1860~1861)
五品江戸廻送令(閏3.19)
万延小判(4.10)←鋳造開始は4月9日から
ヒュースケン殺害事件(12.5)
  • アメリカ公使館の通訳者でアメリカに帰化したオランダ人
  • 初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスの秘書兼オランダ語通訳(当時日本は外交にオランダ語を使用していた)
  • 攘夷派の薩摩藩士らに斬られ翌日死亡
日普修好通商条約(12.14)
1861年 ロシア軍艦対馬占領事件(ポサドニック号事件)(2.3~8.15)
文久
(1861~1864)
東禅寺事件(第一次)(5.28)
1862年 坂下門外の変(1.15)
和宮降嫁(2.11)
  • この日、江戸城で婚儀
寺田屋事件(4.23)
現在の寺田屋(京都市伏見区)
現在の寺田屋(京都市伏見区)
  • 島津久光の使者が攘夷派の薩摩藩士を斬殺
文久の改革(6~)
生麦事件(8.21)
イギリス公使館焼打ち事件(品川御殿山)←高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文・品川弥二郎ら(12.12)
尊王攘夷派が朝廷を掌握(三条実美ら)
1863年 文久の攘夷令(打払令)
長州藩外国船砲撃事件(下関事件)
高杉晋作が奇兵隊結成
薩英戦争
天誅組の変(8.17)
八月十八日の政変(8.18)
生野の変(10.12)
1864年 天狗党の乱(3.27~12.17)
池田屋事件(6.5)
元治
(1864~1865)
禁門の変(7.19)
第一次長州征討(幕朝戦争)→幕府に恭順→保守派が勢力回復→高杉晋作らが下関で挙兵し勝利
四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争・馬関戦争)(8.5~8.8)
  • イギリス公使オールコックの指導
  • 8月8日休戦・8月14日に講和条約が成立
1865年 坂本龍馬と西郷隆盛が京都で会談
慶応
(1865~1868)
兵庫開港要求事件(9)
条約勅許(10.5)
伊藤博文・井上馨らが武器購入(グラバー)
1866年 慶應の打ちこわし(5)←摂津西宮~大坂周辺へ拡大・米価高騰が背景
改税約書(5.13)
  • 兵庫港沖に集結した欧米列強艦隊の威圧を受け締結
  • 幕府全権の老中水野忠精(ただきよ)と英・米・仏・蘭4国代表との間に調印
  • 安政五カ国条約で定められた輸入関税率の引き下げ
  • 35%~5%(一般品目20%)の従価税であった関税が原価の一律5%を基準とする従量税に改められる
  • 欧米諸国の自由貿易の意向を反映
  • これを機にそれまでの輸出超過から輸入超過に転換
  • 安価な綿織物が大量輸入され国内の綿織物業が衰退
武州一揆(6.13~6.19)
  • 武蔵国で発生した世直し一揆
  • 武州世直し一揆とも呼ばれる
信達一揆(6.15~6.22)
  • 陸奥国の信夫郡・伊達郡で発生した世直し一揆
徳川家茂死没(7.20)
  • 大坂城で死去
-
徳川慶喜
(1866~1867)
徳川慶喜将軍(12.5)
孝明天皇死没(12.25)
1867年 -
明治
(1867~1912)
明治天皇(1.9)←14歳
ええじゃないか(東海地方中心)(8~)
大政奉還(10.14)
討幕の密勅(10.14)
ええじゃないか(上方中心)(11~12)
王政復古の大号令(12.9)
小御所会議→辞官納地の命令(12.9)
徳川慶喜が大坂城に引き上げ(12.13)
旧幕府側が江戸薩摩藩邸焼き討ち(戊辰戦争の契機)(12.25)←武力倒幕を目論む西郷による旧幕府側の挑発が原因(相楽総三らを使って薩摩藩邸を拠点に江戸市中での放火掠奪暴行など)
1868年 鳥羽伏見の戦い(1.3~1.6)
徳川慶喜が大坂城から海路で江戸へ退却(1.6)→上野寛永寺で謹慎
慶喜追討令(1.7)
赤報隊結成(近江国金剛輪寺)(1.8)←西郷・岩倉らの支援
神戸事件(1.11)
有栖川宮熾仁親王が東征大総督(2.9)
東征軍が進軍を開始(2.15)
堺事件(2.15)
彰義隊結成(慶喜の護衛などを目的)(2.23)
赤報隊を偽官軍として相楽総三ら8名処刑(3.3)
神仏分離令(3.13~10.18)→廃仏毀釈運動を誘発←護法一揆
五箇条の御誓文(3.14)←戊辰戦争および1~3月の攘夷事件多発を背景
江戸城無血開城・徳川慶喜の水戸謹慎の決定(3.14)
江戸総攻撃予定日(3.15)
五榜の掲示(3.15)
大阪行幸(3.23)←大久保利通の提言・40日余り滞在
江戸城無血開城→慶喜は寛永寺を出て水戸へ退去(彰義隊は寛永寺に残る)(4.11)
→前島密の建白書が大久保に届く
浦上信徒弾圧事件(閏4.17)
会津戦争(閏4.20~9.22)
政体書公布(閏4.21)←副島種臣・福岡孝弟(アメリカ合衆国憲法・『西洋事情』等を参考)
太政官札(金札)発行(5.15)←由利公正の建議・財政補完目的・高額金札中心・不換紙幣
上野戦争(5.15)←彰義隊が寛永寺一帯に立て籠もり
江戸を東京府に改称(7.17)



明治
(1868~1912)
明治改元の詔・一世一元の制(9.8)
会津若松城落城(9.22)
東京行幸(1度目)(10.13)
箱館戦争(10.21~69.5.18)
京都に還幸(12)