高島炭鉱事件

1888年に明るみに出た鉱夫虐待事件。長崎県長崎港外にある高島炭鉱は1881年から三菱の経営で鉱夫管理は納屋制度(労働者を納屋と呼ばれる合宿所に収容し、請負業者たる納屋頭や小頭の日常監視による身分的拘束の下に半強制的な労働に従事させた制度。明治期の鉱山などに広くみられた)を取っており、酷使に耐えかねて坑夫がしばしば騒動をおこした。

1878年には賃上げ要求の鉱夫が暴動化、100余人が逮捕された。87年末〜88年の新聞・雑誌によって鉱夫虐待の実態が広く知られるようになり、特に88年6月の雑誌『日本人』(三宅雪嶺らの政教社が創刊)掲載の潜入ルポに三宅雪嶺の批判を載せて訴え、鉱夫虐待が高島炭鉱事件として社会問題化した。

世論の高まりを受けて、88年8月に政府は清浦奎吾警保局長を高島に派遣、現地を視察し、鉱夫の待遇改善を勧告した。三菱は納屋制度の改革に着手し、1897年争議発生を機に納屋制度を廃止。

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