七博士建白事件

1903年6月10日、日露戦争の直前に東京帝国大学教授戸水寛人・富井政章(まさあきら)・金井延(のぶる)・寺尾亨・高橋作衛(さくえ)・小野塚喜平次および学習院兼東京高等商業学校教授中村進午の7人が日露開戦論を主張して連名で意見書を政府に提出した事件。

日清戦争後の遼東半島返還の際、日本が不割譲条件を留保しなかったこと、および義和団事件後の各国撤兵に際してロシア軍の満州からの撤退を詳細に規定しなかったことをあげて桂太郎首相の外交政策を軟弱として非難し、あわせて対露開戦を求める建白書を桂首相と小村寿太郎外相に提出した。

これが、対露交渉をめぐって行われた御前会議翌日の24日『東京朝日新聞』に公表され、その対露強硬外交・即時開戦の主張は世間に衝撃を与えた。この学者グループの新聞・雑誌や講演による積極的な行動は、日露開戦論の火付け役を果たすものとなった。

また小野塚が抜けて建部遯吾(たてべとんご)東京帝大教授が加わったのちの七博士の運動は、日露講和条約締結反対の主張に至って、これを不当とした政府は1905年8月25日、文官分限令を適用して戸水を休職処分にした(戸水事件)。大学側は大学の自治を侵すものとして反対し、久保田譲文相の辞任にまで発展した。

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