露清密約(李‐ロバノフ条約)
1896年6月3日、清国の李鴻章とロシアのロバノフ外相・ウィッテ蔵相が結んだ防敵相互援助条約。モスクワで調印された。露清同盟密約とも言う。当時は、その存在自体が秘密とされ、日本がこれを確認したのは日露戦争開戦後の1904年5月のことだった。
ロシアは1891年シベリア鉄道の建設に着手し、これに関連して中国東北(満州)への進出をねらっていたことから、1895年日清戦争後の対日賠償金に対する借款供与の申し出や三国干渉で清国に恩を売り、見返りを求めた。一方の清国側も、日清戦争後の高まる「連露拒日」論を背景に清国政府はロシアと軍事同盟を結ぶ道を模索した。
1896年、ニコライ2世の戴冠式列席のため、李鴻章が慶賀使として訪露した機会に交渉が行われた。ロシアが李鴻章に強請してこの条約を締結させ、その際、李鴻章はロシアから50万ルーブルの賄賂を受け取った。
この条約は、日本がロシアと清のいずれかへ侵攻した場合に互いの防衛のため参戦するという相互防御同盟の結成が名目であったが、同時に、清に対してロシアの満州における権益を大幅に認めさせるという不平等条約の側面もあり、日露戦争を惹起した原因の一つとされる。
密約の主な内容は、露清両国および韓国の領土が日本に攻撃されたとき両国軍の相互支援と単独不講和、また清国はロシアに黒竜江省と吉林省を通過してウラジオストクへ至る鉄道(東清鉄道を含む)の敷設権とそれによる軍隊と軍事物資の輸送権を与えた。
ロシアはこの条約で満州での駐留や権益拡大を清に承認させることに成功し、急速に同地方に進出していった。日本は日露開戦後までこの密約の存在を知らず、日露協商策を進めたが、この密約の存在により失敗して日英同盟を選んだ。また日露戦争中は、ロシアの露骨な満州侵略が行われたため、清国は中立の態度をとった。
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