二個師団増設問題

日露戦争開戦直前の陸軍は13個師団体制であったが、戦時中に4個、戦後の1906年にはさらに2個増強されて19個師団体制となった。山縣有朋はさらに「平時25個師団・戦時50個師団」まで拡張すべきだと主張、海軍もアメリカを仮想敵国とした八八艦隊構想を抱いており両者の構想が組み合わさる形で「帝国国防方針」案が作成された。

特に日韓併合後の2個師団増設を主張した。当面の目標として朝鮮半島に駐留させる2個師団の増師(師団増設)を行って21個師団体制にすることを望んだが、戦後の財政難の中で第1次西園寺内閣も第2次桂内閣もそれを行うことはなかった。

1911年に成立した第2次西園寺内閣の陸軍大臣の石本新六はその方針を変えなかったが、内閣との対決は避けて協調する方針を取っていた。しかし、1912年4月に石本陸相が急死して後任に上原勇作が就任すると、軍務局長の田中義一とともに政財界に対して積極的な働きかけを始めた。

陸軍は、

①シベリア鉄道の複線化によりロシア軍の増強が容易になっている。

②辛亥革命によって中国情勢が不安定になっている。

③ 日韓併合によって常設部隊の必要性が生じた(従来は内地(日本本土)の師団を交替で派遣していたが、非常時には対応が困難)。

として、増設の必要性が高まっていると主張した。
これに対して内閣は、

①財政難。

②日露協商の成立で日露関係は安定している。

③世論が増設に反対している。

として、時期尚早であるとした。

世論の支持を受けた内閣と政財界に支持を広げた陸軍の対立が続いたが、明治天皇の崩御(7月30日)と大喪(9月13日)があり、結論は先送りされた。

山縣は二個師団増設問題を内閣の意向や世論の反発を無視して強引に推し進めることに危ないものを感じ、将来の増設への手がかりを残すことを内閣と約すことで、内閣と陸軍の妥協を図ろうとした。

増設反対の西園寺首相とそれを支持する世論、そして増設を要求する陸軍内部からの突き上げに上原陸相は苦しむようになったが、桂が上原に強硬路線をとるよう求めたことで、上原は11月22日の閣議において2個師団増加のために今後6年間に200万円ずつの財源をつけるように要求した。

内閣はこれを拒否、世間でも増師反対大会が開かれるに至った。これを受けて、上原は12月2日に大正天皇に対して帷幄上奏をして単独辞職。陸軍と西園寺内閣の対立は公然としたものとなり、山縣といえども調停は不可能になった。12月5日、西園寺内閣は総辞職に追いこまれる事態となったが、西園寺自身は首相を辞めたがっていたこともあり、山縣の慰留にも応じなかった。

不況の中で大蔵省が財政緊縮をはかり、それに対して陸軍・海軍・内務省の要求が競合するという状況が背景にあった。

1914年に第一次世界大戦が勃発し、当時の第2次大隈内閣は2個師団増設の必要を認めて予算案を提出したが、かつての西園寺内閣の支持基盤で大正政変を主導した立憲政友会の反対で否決、衆議院は解散されて1915年3月25日に第12回衆議院議員総選挙が行われた。この選挙で大隈内閣を支持する党派が勝利を納め、同年6月になって2個師団増設の予算案が認められた。これを受けてこの年の12月に第19師団と第20師団が咸鏡北道の羅南と京城郊外の竜山にそれぞれ設置された。第一次世界大戦による好況が背景にあった。

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