日韓議定書

日露戦争開始にともなって1904年2月23日、漢城(ソウル)で調印された日本と韓国間の政治的、軍事的協約。駐韓公使林権助(ごんすけ)と韓国外部大臣署理李址鎔(りしよう)が調印。日露開戦に際し局外中立を図ろうとした韓国を、日本は自国の支配下に置き対露作戦基地にしようとした。そのため、韓国の独立と領土保全および王室の安全を保障するかわりに、韓国領土内における日本軍の行動の自由と、軍略上必要な土地の収用を韓国に承認させた。これで韓国全土は日本軍に制圧されることになった。

義和団戦争以降、ロシアと日本の対立に危機感を深めた韓国皇帝の高宗は、朝鮮中立化を両国に提案していた 。しかし両国は朝鮮の土地買収や満洲支配をめぐって鋭く対立 、戦禍の及ぶのを避けるため高宗は、両国の承認がないまま1904年1月、局外中立を宣言 。英・独・仏・伊・デンマーク・清国、そしてロシアも承認したが、日本はこれを無視、2月4日に開戦を決定した 。

開戦直前の6日、日本軍は朝鮮の鎮海湾と釜山・馬山の電信局を占領 、2月10日に「韓国ノ保全」を大儀としてロシアに宣戦布告 、さらに漢城(ソウル)に進駐して、2月23日に公使林権助が外相李址鎔を買収、他の閣僚を強迫して、韓国政府に日韓議定書調印を迫った 。

その内容は、日本の介入による施政改善、韓国の独立と領土保全の保障、内乱や第三国の朝鮮侵害には日本が介入、日本の軍事行動の便宜保障や軍用地の任意利用、この協定の違反になるような協約を第三国と結ばないなど。大韓帝国の領土と皇室の保全をうたうものの、日本の日露戦争遂行上必要な便宜と土地の提供を韓国に義務づけ、韓国政府は施設改善に関し日本政府の忠告を入れることと規定した。

これによって韓国は日露戦争に全面的に協力することが強いられたほか、韓国の施政の改善に関し日本の忠告をいれると定められていたことから、韓国内政に日本政府が介入する道を開き、日本の韓国保護国化の第一歩となった(日韓議定書は韓国併合に至る韓国植民地化への一連の条約の最初のもの)。

これに対し朝鮮民衆は反対運動を起し、中枢院も動揺、李址鎔邸などに投爆があった。

コメントは受け付けていません。

このページの先頭へ