変法自強運動

1895〜1898年にかけて、中国、清末の光緒帝時代に康有為・梁啓超らが起こした国政改革運動。学会が発行する会報や、出版社が発行する雑誌や新聞を主な媒体として、様々な改革案を提示する形の言論活動を軸にして展開された。

1895年の日清戦争敗北、その後の列強による租借地要求・中国分割の動きに対し、康有為らは救国のためには従来の洋務(洋務運動・1860年代前半 – 1890年代前半、清朝体制をそのままにしてヨーロッパ近代文明の科学技術を導入し国力増強を目指した運動)でなく、国政改革による自強(富国強兵)が必要と主張。強学会などを組織し、日本の明治維新を範とする立憲君主制国家建設の必要性を説き変法自強運動を展開。憲法制定・国会開設・学制改革などを提唱し、しばしば上書を行った。

これを受けて光緒帝は1898年6月11日、具体化に着手した(戊戌の変法・百日維新)。康有為ら改革派官僚は光緒帝のもとで清朝政府に登用され、改革が進むかと思われたが、西太后を中心とする保守派のクーデター(戊戌の政変)によって阻まれた。光緒帝は監禁されて実権を失い、康有為・梁啓超らは日本に亡命した。そのほかの変法派の主要人物は処刑。変法運動は完全に挫折した。

戊戌の変法は、列強の帝国主義侵略に対して、権力の内部から政治組織・官僚組織・教育・兵制・産業などの近代化を図ることによって中国を守ろうとするものであったが、それを支えたのは少数の改革派官僚に止まり、国民的広がりはなく、改革の進行によって手放さざるを得なくなる政治的主導権や既得権益に対する危機感を持った宮中の保守派によって排除されてしまった。

戊戌の変法の失敗の後、中国民衆の中には宗教的感情を強く持った排外思想が強まり、義和団事件という民衆暴動に転化していった。復権した西太后は、新政を否定して改革派を一掃した。1900年に義和団事件が勃発すると、西欧列強に宣戦布告したが、北京を外国軍に占領されて敗北し、北京議定書で外国軍の北京駐在などを認め、帝国主義諸国への従属の度合いを強めた。

清朝の存続がいよいよ危うくなったので、西太后はようやく改革の重い腰を上げた。それが1901年からの光緒新政(光緒帝は幽閉されており実権はなく、光緒年間の改革という意味)であるが、その内容は戊戌の変法の焼き直しに過ぎなかった。しかし光緒新政の中に、康有為らの変法の思想は生かされていたと言うこともできる。

コメントは受け付けていません。

このページの先頭へ