第一次護憲運動

第2次西園寺内閣の後継内閣として、陸軍大将の桂太郎が詔勅を得て第3次桂内閣を組閣することとなったが、これを山縣有朋の意を受けた桂が陸軍の軍備拡張を推し進めようとしたものとみなし、議会中心の政治などを望んで藩閥政治に反発する勢力により、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとする憲政擁護運動が起こされた。

立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅らは、お互いに協力しあって憲政擁護会を結成する。 大正2年(1913年)2月5日、議会で政友会と国民党が桂内閣の不信任案を提案、尾崎行雄の弾劾演説が行われた。

桂は不信任案を避けるため、5日間の議会停止を命じた。ところが停会を知った国民は怒り、桂を擁護する議員に暴行するという事件までが発生。桂は9日に詔勅を政友会の西園寺総裁に下させ、それを盾に不信任案の撤回を政友会に迫ったが、政友会内では動揺する原敬ら党幹部を一般代議士が突き上げる形で不信任案をもってのぞむことが確認された。これに対して桂は衆院解散をもって議会に臨もうとした。

そうした中の2月10日、衆院解散に反対する過激な憲政擁護派らが上野公園や神田などで桂内閣をあからさまに批判する集会を開き、その集会での演説に興奮した群衆が国会議事堂に押し寄せるという事件を起こした。桂は衆議院議長の大岡育造から「解散すれば内乱が起きる」と説得されて総辞職を決意し、そのためにさらに3日間の議会の停会を命じた。

しかし事情を知らぬ群衆は、停会に激怒して国民新聞社や交番などを襲った。さらにこの憲政擁護運動は東京だけでは収まらず、関西などにおいても同様の襲撃事件が発生し、各地で桂内閣に反対する暴動が相次いだ。2月11日、桂内閣は総辞職した。

後継内閣には海軍大将山本権兵衛が政友会を与党(内務大臣原敬・大蔵大臣高橋是清など)として組織し、政党内閣に近い体制がとられた。民衆の多くは政友会と国民党連携による政党内閣を期待する声が多かったので、政友会が山本内閣に妥協したことは民衆を失望させた。このため尾崎らが政友会を離党し、新たに政友倶楽部を結党。国民党も山本内閣と一線を画す立場をとった。

これに対し山本内閣と政友会は文官任用令の改正、軍部大臣現役武官制改正(現役規定をなくす)、行財政整理の断行などを実施することで批判をかわし、第一次護憲運動は一応束していった。

第一次護憲運動は政党と新聞記者らが表面に立ってはいたが、日露戦争後に頻発した都市民衆による騒擾事件によって民衆の政治意識が成長しはじめ、民衆の運動が絶えず政党を突き上げ、客観的主導力は民衆の側にあったとされる。また青年層や実業家も活発な動きを示した。総じて大正デモクラシーを大きく切り開いたものとされる。

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