地方改良運動

日露戦争後、多大な戦費による財政の立て直しや社会矛盾、講和への不満などで荒廃した地方社会と市町村などの地方団体の改良を目的に、国家主義で統合することを目ざして内務省主導で行われた官製運動。第二次桂太郎内閣のもとで、戊申詔書の渙発(1908年10月13日)を契機に本格化、内務大臣平田東助,内務次官一木喜徳郎らにより推進された。

日露戦争の結果、帝国主義国として列強と並ぶ国際的地位を得たが、戦後の地方社会は、そのしわ寄せを受けて疲弊、荒廃し、町村財政も破綻に瀕していた。地方改良運動はそうした状態への対応であり、直接的には国家の基礎としての地方団体(地方自治体)を、帝国主義国家としての日本を支えるに足るものとすることを目ざした。

平田ら国家官僚は、日露戦争勝利後の日本は欧米列強に伍して経済戦を戦わねばならず、したがってそれに耐えうる国内体制の整備・強化を早急に実現することが戦後の課題であるとしたのである。

その重点は、町村財政の整備、町村基本財産の造成、優良吏員の養成などに置かれ、具体的には、税の滞納の整理、部落有林野の統合などが行われた。また同時に、町村を支える地方社会の改良にも目が向けられたほか、国民に対するさまざまな教化策も推し進められた。

1909年以降全国の町村吏員を集めて有識者を中心に各地で地方自治、地方財務、農事改良、普通教育、青年教育などの地方改良事業講習会を開催した。これにちなんで地方改良運動と呼ばれた。地方改良運動を通じて、青年会、在郷軍人会、婦人会などが生み出され、国家目的に沿った奉仕の活動へと変質して、国家統制が強化され、軍国主義培養の基盤となっていった。

コメントは受け付けていません。

このページの先頭へ