旅順・大連租借に関する露清条約

1898年3月27日にロシア帝国と大清帝国の間で結ばれた遼東半島先端部の旅順港・大連湾の租借に関する条約。旅順・大連租借条約とも言う。調印者の名前からパヴロフ協定としても知られる。

1898年3月27日、ロシア帝国は、下関条約で決まった対日賠償金の援助に対する担保と清国内で起こる排外主義運動に対する責任を理由に、旅順港および大連湾の租借に関する条約を清国に結ばせた。調印したのは、清国側が李鴻章と張蔭桓、ロシア側がアレクサンドル・パヴロフ、調印地は北京。

9か条より成るが、これによりロシアが獲得した主な権利は、

(1) 遼東半島の南端の旅順・大連の25年間にわたる租借権
(2) 東清鉄道と大連とを結ぶ支線(南満州支線)の鉄道敷設権

である。

これによりロシアは満洲で軍港や鉄道の建設を開始した。旅順軍港を築港し、主要部分の周囲をコンクリートでかためた堅固な旅順要塞を築くなど、自国の勢力の扶植を強力に推進させることになった。日露戦争において旅順は、海軍では旅順口攻撃と旅順港閉塞作戦、陸軍では旅順攻囲戦の舞台となり、日本とロシアの激戦地となった。

日本の国防と商工業にとって重要性が高まっていた朝鮮(大韓帝国)に関していえば、今やロシアがウラジオストクと旅順に確固たる拠点を有し、朝鮮半島の付け根が完全にロシアに握られるかたちとなった。日本において「満韓交換論」の政略が登場するのは、こうした流れからであり、1898年4月25日、東京において調印された西・ローゼン協定もその見地からなされたものである。

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