満韓交換論
日露戦争以前、満州でのロシアの優越権を認める代わりに、朝鮮半島での日本の優越権を認めてもらおうという考え方。1900年頃に伊藤博文らが日露協商論の立場から提唱した。
日清戦争後、朝鮮半島・満州への進出をめぐり日露間の対立が高まると、日本国内では、「臥薪嘗胆」論により、近い将来の両国の開戦を不可避としこれに備えようとする意見と、もう一方はロシアと交戦状態になったところで勝算はなく、両国の利害を調整して開戦は回避すべきとする意見があった(両意見は対立していた訳ではない)。
後者の立場に基づき、朝鮮に関する利害については山縣・ロバノフ協定(1896年)や西・ローゼン協定(1898年)など関係調整がはかられたと同時に、「満韓交換論」(満州をロシア、朝鮮を日本の勢力範囲とし両国の棲み分けを画定しようとするもの)に基づき、より包括的な同盟関係(日露協商)を結ぶべきであるとする伊藤博文の意見が一定の影響力を持ち、ロシアとの交渉に当たった。このため伊藤は反対派から「恐露病」と揶揄されたが、この考えは井上馨や松方正義の支持を得た。
たとえば、1898年3月19日西徳二郎外相は、ロシアが韓国を日本に委任すれば日本は満州とその沿岸を日本の利益の範囲外と認めるとロシア公使ローゼンに通告した。しかし3月27日には露清間に旅順大連湾租借条約が成立し、ロシア側は日本の提案を拒否した。
一方、山縣有朋や桂太郎、小村寿太郎らは日英同盟を結んでロシアとの対抗を主張していた。これは、仮に日露協商が成立しても長続きせず、ロシアの側がこれを破棄することは確実で、朝鮮半島に勢力を拡大してきたらそれ以上の対応ができない、それならばいっそのこと開戦したほうがよいとの考えである。
義和団の乱(1900年-1901年)に際したロシアの満州占領はイギリスにも脅威を与えた。当時イギリスは、長江流域に権益を持ちながらも、ボーア戦争の深みに嵌まり、極東に戦力を差し向ける余力を失っていた。そこで、ロシアの南下を牽制する意味合いから日本に接近し、ロシアへの対応を模索していた日本との利害が一致、1902年のロシアを仮想敵とする日英同盟へと繋がった。
これにより日本は、世界帝国であるイギリスを後ろ盾としてロシアに対抗する方針へと転じ、一時的な譲歩案に過ぎない満韓交換論による日露協商論案の主張は後退した。
1903年4月21日には伊藤博文、山県有朋、桂太郎、小村寿太郎らが会談し、ロシアの満州軍事占領に対して満韓交換論でのぞむ基本方針を協議した。これを受けて満韓交換が6月23日の御前会議で決定された。1903年8月、日本はロシアに満韓交換論を提示したが、軍事的に勝るロシアはこれを拒否した。
一方のロシアは、朝鮮半島を南北に分け、南側を日本の勢力下に、北側を中立地帯として軍事目的での利用を禁ずるという提案を突きつけた。これは「満州はロシアの勢力圏であり、日本はそれを守るために朝鮮半島の北半分を手放せ」という事実上ロシアの支配下に朝鮮半島が入ることを意味し、日本としては受け入れられる提案ではなく、翌1904年日本はロシアと国交を断絶。満韓交換論は完全に消滅し、日露戦争へと向かうこととなった。
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